枚方宿歴史観光 川と街道と鉄道と、今も発展し続けるハイブリッド宿場町

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万年寺山

蓮如上人御旧跡

蓮如上人御旧跡 石碑

京阪の蔵谷踏切を渡ったところにはある重要な石碑があるはずなのですが、更地になってしまって跡形もなくなっています。仕方が無いので別のサイトから引用させてもらいました。

引用元:localwiki

石碑には「蓮如上人御旧跡 旧名順興寺 谷御坊」とあります。寺の位置は厳密にはここではなく、もう少し丘を上がったところにあったといわれています。

蓮如上人が寺をこの丘に創建したことで周りには町が形成されていきました。枚方の町の始まりは、宿場町ではなく本願寺の寺内町だったのです。

枚方は大坂の石山本願寺に近いため、順興寺は重要拠点の一つとなっていました。そのため、石山合戦の時に織田信長から攻撃され、寺内町は焼失。その後、豊臣秀吉により京街道が整備され、枚方は宿場町として復活することになりました。

現在も万年寺山には寺内町であった名残があるので巡ってみましょう。

願正坊

願正坊

宿場町となった時、万年寺山には再び多くのお寺が建立されました。

願正坊は1611(慶長11)年に本願寺大谷派(東本願寺)によって建立。桝形にあった浄念寺(西御坊)に対して、こちらは東御坊と呼ばれています。

丘へ向かう坂道には古い町並みが残っています。

蓮如上人の時代からこの辺りは蔵ヶ谷もしくは蔵之谷と呼ばれ、文字通り古い蔵をちらほら見かけます。

寺内町であった時代、多くの商人が住んでいたため、たくさんの蔵が建ち並んでいたことが地名の由来です。

更に坂道を上がっていきます。丘の上には万年寺山でも特に古いお寺がありました。

意賀美神社(おがみじんじゃ)

意賀美神社

少し進むと、鳥居と奥を続く急な階段が見えてきました。

意賀美神社は枚方を代表する神社で、水の神様である高龗神(たかおかみのかみ)を祀っており、航行の安全と水害除けを祈願し淀川の鎮守社として創建されました。

明治以前は少し南の旧伊加賀村にありましたが、1909(明治42)年に元々この場所にあった須賀神社と宗佐の辻の近くにあった日吉神社と合祀され、今の場所に遷されました。

石塔九重塔

参道を上がると、お寺にありそうな石塔を発見。

隣の石碑の文字は途中で地面に埋まっていますが、長松山萬年寺と記されています。

萬年寺は7世紀ごろ、京都醍醐寺の聖上上人が建立されたと言われています。須賀神社は萬年寺の鎮守社でした。しかし、明治の廃仏毀釈によって萬年寺は廃寺の憂き目にあってしまいました。るろうに剣心の安慈の話を思い出します。

十三重であった石塔は上の部分が失われ九重になり、石段は途中で行き場を失っています。

参道の階段途中には、打ち捨てた様に石仏や燈籠が放置されていました。

日本の歴史を振り返えると、日本人は外国の文化に対して反応が極端なケースが多いと感じます。拒否するときはとことん拒否し、一旦受け入れると極端にかぶれる。もうちょいバランス良く出来ひんのかいな。

意賀美神社 境内

あとで知ったのですが、意賀美神社には「ゼロ磁場」といわれるパワースポットがあるらしいです。

「ゼロ磁場」とは磁場が打ち消されめっちゃ弱くなった場所のことです。社殿前の階段あたりがそうで、磁場が弱いので方位磁石を近づけると変な動きをするそうです。

何故かは、科学的によく分かっていないみたいです。

意賀美神社 梅園

石塔九重塔から横の道を進むと、梅林園があります。約110本の梅が植えられていて観梅の名所となっています。

梅ってあまり見たことがないので、これがどの程度の咲き誇り具合なのかよく分からない。5分咲きくらい?

御茶屋御殿跡

御茶屋御殿跡

意賀美神社のすぐ近くには、豊臣秀吉が1595(文禄4)年に建てた御茶屋御殿の跡あります。

伏見と大坂に拠点を置いた秀吉にとってその中間にあたる枚方は、淀川とその両岸にある京街道と西国街道を眺めることが出来る要衝でした。

また頻繁に行き来することも多く、休憩や宿泊所として景色の良い万年寺山に御茶屋御殿を建てました。

御茶屋御殿跡 案内

秀吉は枚方城主であった本多正康の娘「乙御前」を住まわせていたとあります。

「乙御前」は秀吉の側女であったと聞いたことがあるので、伏見大坂の移動時には枚方に立ち寄って乙御前に会いに行っていたのだろうと想像できます。

秀吉の死後は、江戸幕府の公用施設になり、徳川秀忠と家光が逗留していたとのこと。しかし、1679(延宝7)年に起こった火事で全焼し、再建されることはありませんでした。

御茶屋御殿跡

けっこう広い敷地で、現在は公園になっています。

どこに何が建っていたかは目印がないのでよく分かりません。きっと、天下人に相応しい豪華な御殿と庭園を備えた施設だったのではないしょうでか。

御茶屋御殿跡 景色

明治30年代と昭和初期の御殿跡からの眺望写真がありました。

明治の写真には本陣跡の公園に北河内郡役所が建っています。まだ宿場町の雰囲気が残っている感じです。

昭和の方は初代枚方大橋が見えますとあるが全然分からない。まだ淀川は枚方宿の間近を流れていました。

この景色が令和にはどうなったでしょう。

御茶屋御殿跡 景色

変わり過ぎやろ!。淀川は遠ざけられ、家並みはコンクリート造りになってるー。

明治と昭和はそんなに変わってへんのに、突然どうしたん。反比例グラフみたい。

枚方は絶えず淀川の水害に悩まされてきました。特に1885(明治18)年に発生した大洪水は未曾有の被害をもたらしました。

建築技術の発達と長年にわたる淀川の治水工事によって枚方の街は洪水の不安から解消されました。

眺望の移り変わりを見ていると、川と共に生きる街の歴史を肌で感じれました。川は遠ざけられ、町並みは近代的になり、移動は鉄道や車になっても、その暮らしの根底には淀川が常にそこにあり続けるでしょう。

枚方宿 Googleマップ

枚方宿へのアクセス

公共交通機関🚃🚌
京阪枚方市駅もしくは、枚方公園駅下車。

車🚗
第二京阪道路「枚方東ICもしくは、交野南IC」から約20分。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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