枚方宿歴史観光 川と街道と鉄道と、今も発展し続けるハイブリッド宿場町

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淀川資料館

淀川資料館

京街道の歴史は淀川の歴史。そのくらい京街道と淀川には密接な繋がりがあります。

資料館には古墳時代の天皇、仁徳天皇から始まる淀川の河川改良工事の歴史の解説がされていました。

その中で、枚方宿に関係があることと言えば、豊臣秀吉による文禄堤です。淀川の左岸(南側)に枚方から大阪の長柄に至る全長27㎞の連続堤防を築きました。当時の京街道はこの堤防の上を通っていました。

宿場町も堤防上に連なっていて。川は町のすぐ裏手を流れていました。現在の淀川がどうなっているでしょうか。

淀川

広大な河川敷が堤防と川の間に広がっています。

江戸時代から明治にかけて枚方宿では、水害から町を守るため堤防の改修工事をしてきました。その繰り返しで堤防は高く広くなり、文禄堤は地中深くに埋もれ淀川は町から離されていきました。

枚方だけでなくほとんどのところで文禄堤の姿は消してしまいましたが、唯一、次の宿場である守口宿にその面影を見ることが出来ます。かなりダイナミックで面白い町割りになっていたので、いづれブログで取り上げたいと思います。

枚方宿にもわずかながら当時の名残を感じられる場所があるので、行ってみましょう。

淀川資料館 公式ホームページへ

枚方浜(問屋浜)跡

淀川は堤防によって切り離され全く川を感じることが出来ませんが、当時この場所に港と船を監視する船番所がありました。

枚方浜(問屋浜)跡

淀川には旅客船である三十石船と貨物船である二十石船が大坂と伏見の航行していました。

川を下る伏見から大坂は半日で着きましたが、上りは両岸から船を綱で曳くため一日かかったらしいです。

実はこの上り下りの所要時間の差が、枚方宿を苦しめた要因になりました。

その謎を解くカギは、枚方宿で唯一、現存している船宿「鍵屋」にあります。カギだけに(笑)。

枚方宿鍵屋資料館

枚方宿鍵屋資料館

船が主要交通であった江戸時代、川沿いの町には船を待つための宿泊や休憩、食事処を兼ね備えた船宿がありました。

鍵屋の創業はいつからか分かりませんが、1773(安永2)年以前から営業していた様です。

鍵屋 主屋

街道沿いに建っている主屋は1811(文化8)年の建築。

街道に面している板戸が完全に外され、めっちゃ開放的になっています。これは板戸を外したのではなく、上に引き上げて収納出来る様になっているのです。ブラタモリの京街道編で登場していました。

大変賑わった船宿だった様で、大勢の客の出入りに対応するためでした。

ここはどこよと船頭衆に問へば ここは枚方鍵屋浦
鍵屋浦には碇が要らぬ 三味や太鼓で船とめる

と船頭が唄っていた三十石船唄の歌詞に登場するくらい、よく知られた名所でした。

鍵屋 別棟

明治になり三十石船が蒸気船に変わった後も船宿として続いていましたが、明治後半に京阪電鉄が開通したことで淀川水運は完全に衰退しました。

鍵屋は業種転換を余儀なくされ、高級料理旅館として再スタートを切りました。主屋の奥にある別棟は1928(昭和28)年の建築で、国有形登録有形文化財に指定されています。

1997(平成7)年まで営業を続けており、その後は枚方宿の歴史を紹介する唯一の資料館になっています。おかげで筆者の様な貧乏人でも見学可能になりました(笑)。

鍵屋 別棟

高級感漂う黒光りする廊下。

客室

かなり雰囲気の良い感じの客室。1階には5部屋ほどあり資料の展示室になっています。

淀川の舟運

京都の伏見から大坂の八軒屋浜(天満橋)まで多くの乗船場があり、数多くの旅客船や貨物船が日夜、行き交っていました。当時から京都と大坂は日本を代表する大都市で、枚方宿は日本で唯一、2つの大都市を川で結ぶ中継地点だったのです。

現在でも淀川は、百万都市同士を結ぶ日本で唯一の河川なのです。

しかし、この淀川が枚方宿にとって諸刃の剣でした。

枚方宿の運営

先ほどの枚方宿の苦しみの謎とは、大坂行き(下り船)は半日で着いてしまうため、枚方宿をスルーされてしまうことです。

川の無い通常の宿場町ならば、この様な事はあり得ません。徒歩移動であるため、常に一定の宿泊客を見込めるからです。

方宿と言われた枚方宿は財政難に陥ってしまいました。枚方宿はどうやってこの苦境を乗り越えたのでしょうか?

それが今の枚方宿くらわんか五六市に使われている、くらわんか舟です。

くらわんか舟

くらわんか舟とは、三十石船(旅客船)が枚方宿にさしかかると、小舟で近づき船客に「酒くらわんか、餅くらわんか」と声を掛け飲食類(酒・飯・汁物・餅・魚・果物など)を売りつける商売のことです。

中でも、ごぼうと卯の花が入ったすまし汁「ごんぼ汁」は枚方の名物でした。今でも食べることが出来るらしいので、お昼に食べに行こうと思います。これもブラタモリで登場していました。

「くらわんか」とは河内弁で「食べませんか」の意味。淀川の名物となっていて、その様相は東南アジアの水上マーケットを彷彿させました。

用は枚方宿をスルーするのならば、こちらから売りに行くという商魂たくましい方法で、枚方宿の経済を回復させたのです。宿場町から商業都市への移行したのでした。また、港町として歓楽街を発達させ、多くの遊興客でにぎわうようになったとのこと。

明治時代の枚方宿

明治時代の古地図がありました。京街道のルートは今と全く変わっていませんが、淀川が今の河川敷沿いの堤防ギリギリまで川が流れています。

枚方浜から鍵屋浦までは船宿や浜問屋が軒を連ねていて、すぐ裏手に船が接岸出来る様になっています。

あと枚方宿で特徴的なのが蔵ヶ谷とある山手の方、今の万年寺山には多くの寺が点在しています。この寺院群にも枚方宿の歴史がつまっています。あとで行ってみます。

鍵屋 船着場

江戸か明治の鍵屋浦の船着場が模型で再現されていました。

この小さな船はくらわんか舟ですね。鍵屋もくらわんか舟での商売をしていたそうです。

しかし、三十石船をどこに接岸させていたのか、良く分からない。

鍵屋 2階

2階に上がってきました。奥に明らかにワンランク上の部屋が見えています。部屋の入口からして特別感があります。

鍵屋 大広間

63畳の大広間の広がり、正面の床の間の左右にはシンメトリーの様な違い棚が。

天井に張り巡らされた格子模様は、格式の高い部屋に用いられる「折り上げ格天井」。

右の窓からは淀川を望むことが出来たそうです。今も見られるでしょうか。

鍵屋 大広間からの景色

窓の外には、川との間を阻むような堤防と休日に家族とドライブ中っぽいファミリーカーが走っていた。

格天井や違い棚がある高級和室と外の日常的風景とのギャップが逆に面白いわ。

三十石船とくらわんか舟

違い棚の下には三十石船とくらわんか舟の模型がありました。

小舟で直接、売りつけに行くっていう発想が面白いですね~。

丁度、お腹が空いてきたので、くらわんか舟が来てくれたら嬉しいんですけど。今は、待ってても来ないので自ら食らいに行きましょう。

枚方宿鍵屋資料館 公式ホームページへ

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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