海宝寺

北堀から西へ進み、JR奈良線を渡ったあたりのところにある海宝寺。
京阪宇治線とJR奈良線に黄檗駅(おうばくえき)という変わった名前の駅があります。これは近くにある萬福寺の宗派・黄檗宗に由来しています。
海宝寺はその萬福寺の僧によって建立されました。

創建は江戸中期の享保年間(1716~1736)。
戦国時代にはこの寺は影も形もなく、首都伏見を示す重要なモノが建っていました。

このあたりには独眼竜で有名な仙台藩の藩祖・伊達政宗の伏見上屋敷がありました。
政宗は秀吉からこの地を屋敷地として与えられ、多くの重臣やその家族などが住まわしていました。その時の遺構として、政宗が植えた樹齢400年以上の木斛(モッコク)が堂々と枝を広げています。
枝が左右に伸びた腕みたいで少し不気味な感じ。ドラクエの切り株おばけみたい。
秀吉は伏見城の周りに大名屋敷を設け、主要な大名を住まわせていました。その名残を地名から感じることが出来ます。
伏見の地名

この辺りの地名は桃山町政宗となっており、伊達政宗の屋敷があったことが町名になっています。
伏見桃山城の周りは、この様な町名で溢れています。

伊達政宗の屋敷跡から南へ下ると、桃山町島津がありました。
ここもそのままで薩摩藩島津家の屋敷跡ですね。仙台からいきなり鹿児島に飛びました。

島津から少し南側は桃山毛利長門東町となっています。
毛利長門守秀就の屋敷跡です。毛利秀就は毛利輝元の嫡男で長州藩の藩祖です。
こんなところで薩長が隣り合っています。

毛利から城の外郭をなぞる様に東へ行くと、桃山町三河がありました。御存じ徳川三河守家康です。
関ヶ原で敵同士となった毛利と徳川がご近所付き合いをしています。
他にもたくさんあり正直、全部上げればキリがないので、地図でまとめて場所を示しておきました。
伏見城を中心に周りを囲む様に大名屋敷が配置され、各大名が天守にいる秀吉にひれ伏している様です。
各地名と大名屋敷です。戦国時代好きとってはビビッと来る名前ばかりです。加賀前田家が筑前守で松平の姓をもらっていたとは知らなかった。そんな意外な発見もありました。
1 桃山町古城山 伏見城天守
2 桃山町治部少丸 石田治部少三成
3 桃山町大蔵 長束大蔵大輔正家
4 五郎太町 徳川義直
5 桃山町政宗 伊達政宗
6 桃山町永井久太郎 永井直勝と堀久太郎秀治
7 桃山長岡越中東町 細川越中守忠興
8 金森出雲町 金森出雲守可重
9 桃山最上町 出羽山形藩最上家
10 桃山水野左近西町 水野左近重良
11 桃山井伊掃部東町 井伊掃部助直孝
12 桃山町島津 薩摩藩島津家
13 桃山福島太夫南町 福島左衛門太夫正則
14 桃山筒井伊賀東町 筒井伊賀守定次
15 桃山羽柴長吉東町 池田長吉
16 桃山毛利長門東町 毛利長門守秀就
17 桃山町三河 徳川三河守家康
18 桃山町松平筑前 前田筑前守利長
19 桃山町鍋島 佐賀藩鍋島家
20 桃山町松平武蔵 池田武蔵守利隆
21 桃山町泰長老 西笑承兌
22 桃山町本多上野 本多上野守正純
23 桃山町板倉周防 板倉周防守勝重
24 桃山町美濃 本多美濃守忠政
25 桃山町和泉 藤堂和泉守高虎
26 桃山町因幡 本多因幡守政武
27 桃山町日向 水野日向守勝成
こうしてあげて見ると、かなりの数が地名として残っています。実はこれで全部ではなく、北の深草エリアにも大名屋敷地名があります。今の名神高速道路あたりまで広がっていた様です。
武家屋敷が多すぎるやろ。人口比率が武士だらけになってしまうやん。
次は町人の町へ移動し、引き続き首都の名残を探していきましょう。
御香宮神社

城の方から大手筋を下ってくると、立派な木造の門が見えてきます。
伏見の中心的な神社で産土神を祀っている御香宮神社です。地元では親しみを込めて「ごこんさん」と呼ばれています。
御香宮神社には首都伏見が感じられる遺構がたくさん残っています。
この表門ですが、神社にしては武骨な感じがしませんか。実はこの門こそが伏見城の大手門なんです。
徳川頼房(家康の十一男、水戸徳川家の祖)が貰い受け、御香宮神社に寄進しました。
伏見桃山城にある今の大手門と全然違うやん!ってツッコミたくなります。建てるんやったら寸分違わず復元して欲しい。

拝殿に行く前に、右の石灯籠の桃山天満宮に立ち寄ります。そこにも伏見城の痕跡があります。

伏見城の石垣造りで余った石が無造作に置かれています。切り込み接ぎ工法の様で、長方形に整形されています。
城の石垣で使わなかった石を残念石と言いますが、ここでは残石となっています。そもそも残念石という言い方は、当時にはなく、現代になってから広まったものらしいです。

拝殿は中央部分を通り抜けが出来る割拝殿となっています。
1625(寛文2)年、徳川頼宣(家康の十男、紀州徳川家の祖)の寄進により、造営されました。
大手門の頼房(水戸)に続いて今度は紀州です。これで義直(家康の九男、尾張徳川家の祖)があれば徳川御三家コンプリートですが、残念ながら尾張だけありませんでした。御三家で尾張だけ将軍を輩出してませんし、除け者感を感じてしまいます。
御三家の中で2人も御香宮神社に寄進をしているのには理由があります。義直、頼宣、頼房の生まれ故郷は伏見だったんです。
3人とも1600年~1603年の生まれで、家康が伏見で政務をとっている時でした。
秀吉だけでなく、徳川にとっても伏見は重要な場所だったわけです。

割拝殿を抜けた先にある本殿。割拝殿と本殿は屋根がそのまま繋がっていて、少し不思議な印象を受けます。
本殿は1605(慶長10)年、徳川家康の命により板倉勝重によって造営されました。ここで大御所登場です。
御香宮神社は一時期、秀吉によって伏見城内に移築されていました。それを家康が1605年に元の場所に戻しましたのです。
元々の創建は不明。御香宮縁起によると、862(貞観4)年に修理をした記録が残っているとのこと。

御香宮神社と言えば、平安時代から湧き続けている名水、御香水が有名です。境内に湧水が出た時、良い香りが漂ったことから、清和天皇より「御香水」の名を賜ったとのこと。
御香水は伏見七名水の一つ。伏見は湧水が豊富な土地柄で、昔は伏水とも書かれていました。明治から伏見に統一されました。今でも伏見の湧水を伏水と呼んでいます。
伏見は酒どころとして有名ですが、伏見の酒造りを支えていたのは、伏見の地下に貯蔵された豊富な伏水だったのです。
先ほど登場した、伏見で生まれた徳川義直、頼宣、頼房は御香水を産湯としていた言われています。

本殿の左奥には摂社の一つ、東照宮があります。東照宮とは徳川家康公を「東照大権現」として祀る神社。久能山東照宮と日光東照宮が本宮となっています。
東照宮は江戸幕府の本拠地である関東地方に多く、西日本にはあまり見かけません。伏見にあるのは、それだけ徳川家と縁の深い土地だったからです。

東照宮から本殿を挟み反対側に行くと、名前が書かれてない摂社がありました。調べてみると「豊国社」とありました。豊国社とは豊臣秀吉公を「豊国大明神」として祀る神社。
東照宮とは逆に、秀吉に所縁がある関西に多く、東日本にはほとんどありません。そのため、東照宮と豊国社は水と油の様になっていて、同じ場所に建っていることがあり得ないことなんです。
全国でも伏見は豊臣と徳川、2人の天下人に所縁がある土地です。宿命のライバル、豊臣秀吉と徳川家康が同じ神社内で睨み合っていて、呉越同舟といった感じになっています。
御香宮神社にはもう一つ見どころがあるので、見に行きましょう。
小堀遠州の庭園

社務所の奥には、小堀遠州ゆかりの庭園があります。小堀遠州と言えば作庭家としてご存知の方も多いと思います。
それだけではなく、江戸幕府の代官として有能な人物で、伏見奉行の職に就いていたことがありました。

1623(元和9)年、小堀遠州政一が伏見奉行になった時、伏見城にあった奉行所を御香宮神社の南側への移転しました。その際、奉行所内に数寄を凝らした庭園を造りました。
しかし幕末、伏見奉行所は戊辰戦争で焼失し、奉行所跡も陸軍工兵隊駐屯地になり、庭園のほとんどが失われました。
ということで、小堀遠州の庭園は失われていました。しかし、「昭和の小堀遠州」と言われている作庭家・中根金作氏が、わずかに残った庭石などを使い御香宮神社内に遠州風の庭園を造りました。
遠州流の品格・静けさ・均整美を現代に継承した方で、端正で品のある庭づくりは遠州の美学を現代に蘇らせたと言われているとのこと。

白砂と石畳の境目はきれいな直線になっています。小堀遠州は日本庭園にはじめて直線を取り入れた作庭家と言われており、小堀遠州流の特徴の一つとなっています。当時としてはかなり斬新だったそう。
この立派な手水鉢はかなりのレア物で、1477(文明9)年の銘が入っています。日本で二番目に古いものらしい。

こちらには後水尾天皇が命名した「ところがらの藤」が移植されています。奥には由来碑が。
次は小堀遠州が奉行を勤めていた伏見奉行所跡に行ってみました。

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