妙興寺

市場小路の突き当りには、福岡を代表する寺院「妙興寺」があります。
元々、福岡は奈良時代に建立された備前四十八カ寺の一つ・薬王寺の門前町が始まりでした。室町時代には実教寺と妙興寺が建立され、そこまで広くない福岡に3つの寺院が並び立ちました。多額の寄進が可能な福岡の経済力が成せる技でした。
今は妙興寺のみがその姿をとどめています。

宇喜多直家の生涯を描いた垣根涼介の小説「涅槃」。実は備前福岡に来ようと思ったきっかけはこの小説でした。
城を奪われ父・興家と共に落ち延びた少年時代の直家は、福岡の豪商「阿部善定」に匿われます。直家は阿部善定を父親の様に慕い、商業感覚を身に付けていきました。
直家が備前一の大名となると、福岡の商人と共に新しい城下町「岡山」を築き上げます。福岡から岡山へ、それは中世から近世への移り変わりでした。
福岡は宇喜多直家の故郷であり、岡山の生みの親だったのです。
また直家には福岡でもう一人、重要な出会いがありました。

アニメっぽい鎧武者のパネルが置いてあります。「黒田家”礎”の地 備前福岡」とあります。
誰やねんって感じですが、そこはやはり一番有名な秀吉の軍師である「黒田官兵衛(孝高)」でした。なんか官兵衛のイメージと違うな~。(官兵衛の本名は黒田孝高ですが、ここでは世間で通っている通称である官兵衛で呼びます)
黒田氏は官兵衛の曽祖父「黒田高政」の時に福岡に移り住んできました。その後、官兵衛の父、職隆の時に姫路へ移るまで3代に渡って暮らしていました。
黒田重隆、職隆親子が久しぶりに福岡で縁のあった阿部善定を訪ねてきます。この時、年の近い黒田職隆と宇喜多直家は、わずかな期間の中で友情とも兄弟とも言える関係性を築きました。
数年後、職隆は播州小寺氏の重臣、直家は備前の大名として再会。それぞれ立場上の外交戦略の話をした後、別れ際に二人は、一番共有しておきたかった子供時代の思い出話に花を咲かせました。
梟雄と呼ばれた人物でも瑞々しい青春時代があり、それを共有できる友人がいる。福岡の町は二人にとって青春そのもので、吉井川の川辺で語らい合う姿をイメージするとたまらなく愛おしく感じました。
しかし戦国は残酷です。関ヶ原が両家の運命を正反対の方向に導きました。東軍についた黒田氏は筑前福岡藩に加増されますが、西軍についた宇喜多氏は廃絶流罪となりました。しかも変わって岡山藩に入ったのは、よりによってあの関ヶ原の裏切り小僧でした。
小説は、岡山城主となった小早川秀秋は宇喜多家の史書や資料を全て抹殺し、備前の民に対して宇喜多直家がいか悪逆非道だったかを面白おかしく創作し広めた。歴史は常に勝者によって捏造され喧伝される。と物語の幕がとじられます。
いつかは福岡城といえば黒田官兵衛みたいに、岡山城といえば宇喜多直家ってイメージになる日が来るかも。でも江戸時代の名君「池田光政」もいるしなー。そこは戦国時代の方がウリが強そうな気がするし、やっぱ宇喜多直家やな。

大河ドラマ「軍師官兵衛」では、黒田家は目薬屋と呼ばれ蔑まれる場面がありました。諸説あるようですが、高政が福岡に移った時、家伝である目薬「玲珠膏」の製造販売を始め、財を成していきました。
特に刀鍛冶によく売れていたと言われています。製鉄や鍛冶に関わる人は強い火に目をさらし続けるため、目を傷めやすく、片目あるいは両目とも失明する人が珍しくなかったのです。
この後で訪れた備前長船には、眼病平癒祈願の神社「靱負神社」がありました。昔から長船の刀工に篤く信仰されています。

墓地の一角には、直家の父「宇喜多興家」の墓がありました。
宇喜多氏の祖は諸説ありはっきりとしていませんが、戦国期には西大寺周辺の土豪であり、備前播磨の守護、赤松氏やその守護代、浦上氏に従属しつつ独自勢力を保ってきました。勃興するのは直家の祖父、能家の代。福岡を取り込むことで勢力を拡大しました。
しかし、能家が隠居し興家の代になった時、同じ浦上氏の被官、島村豊後守盛実の奇襲を受け、能家は城を枕に討ち死。興家は当時6才であった八郎(後の直家)を連れて備後鞆の浦に落ち延びました。その後、福岡の豪商阿部善定に誘われて福岡にやってきました。興家は宇喜多家再興を直家に託し、この地で亡くなりました(小説では自分勝手な理由で自殺しており、かなりのポンコツ武将に描かれていました)。

墓地の奥の方には、官兵衛の曽祖父、黒田高政の墓がありました。その子の重隆以降は播磨に移ってから亡くなっているので、ここにあるのは高政だけの様でした。
次は町を巡って、中世の商業都市の名残を探してみようと思います。
町並みに隠された秘密

福岡の町を巡っていると、不思議なことに気が付きました。
三叉路ばかりで十字路の交差点が全くありません。何故か写真の様に道を一直線にせず、軸をずらしているのです。
これは敵が攻めて来た時、端まで見通せない様にする工夫でした。戦乱の絶えない中世では、この様にして町を守っていたのです。
防御の工夫はまだ他にもありました。
特に有数の商業都市であった福岡は狙われやすく、野盗や山賊などが引っ切り無しに襲い掛かってきたのかもしれません。

2つめの中世的町割りは「歪」です。
少し道が右へカーブしています。これも見通しを悪くするため、わざと道を曲げているのです。

3つめが「襞」です。家屋の並びを見てもらいたいのですが、一直線に並んでおらず、左から順に奥に引っ込んでいるのが分かると思います。
これは敵に攻め込まれた時、身を隠せるスペースを作り出しているとのことです。
使い方をイメージをすると、野盗等が攻め込んで来た時、町の人は武器を持ってこのスペースに隠れて、敵をやり過ごしたあと、後ろから弓や槍で不意打ちするって感じでしょうか。さすがにガチの大名の軍勢が攻めてきたらどうすることも出来ないでしょうが。
小説「涅槃」では、宇喜多家の支配下に入り税金を払う代わりに町を守ってもらうという関係を築いていました。今から考えると普通のことですが、室町時代の大名は、年貢を徴収するだけで民に何もしてくれない無用有害な存在になり果てていました。

4つめは環濠です。環濠とは外敵から町を守るため、町の周囲に巡らせた堀のことです。
環濠に関しては、案内に説明がなかったので確証はありません。しかし、堀を辿ってみると見事と旧市街を一周していたので、中世の環濠集落の名残だと思います。

地蔵堂と環濠の組み合わせは、環濠集落の典型的な風景です。環濠集落では町の入口に旅行安全と町の守り神として地蔵堂を建立していました。
他にも何カ所か町の入口にお堂が残されていました。

町の中に手作り感あふれる備前福岡の地図がありました。町の伝統を大切にしておられる感じが伝わってきます。
何故か英語で「七口」「七小路」「七つ井戸」と書いてあります。
1573(天正元)年、福岡の商人は宇喜多直家による新しい城下町「岡山」への移住をしました。その後、運が良いのか悪いのか分かりませんが、1591(天正19)年、吉井川の氾濫により福岡は壊滅的な被害を受けました。元々、吉井川はもう少し東側を流れていましたが、町を飲み込む様に水が流れてきました。
当時は今の吉井川の西岸も含めた、もっと大規模な巨大都市だったのです。
今の福岡の町並みは、江戸時代に岡山藩領となった時に再整備されたもので、「備前福岡名所町、七口、七つ井戸、七小路」と言われました。かつて程ではないですが、西国街道有数の在町(農村にある商工業集落)として復活しました。
今も七つの小路、七つの井戸、七つの入口が残されていました。

井戸は七つのうち四つの残っていました。
井戸水は吉井川の地下水の為、水質が良く枯れることはなく、大正末期までは近くの村からも大八車とかで水汲みに来ていたとのこと。
次は古い町並み巡りの定番、古民家訪問と行きましょう。福岡には拝観可能な民家が2軒あります。
東原邸 棟梁の家

大正初期に建てられた古民家。名前の通り、大工の棟梁である東原氏が自ら建てた自宅です。
地元の名棟梁で、福岡に残る様々な素晴らしい建築物を手掛けたそうです。
棟梁の凄技が見られると思ったら、運悪くこの日は何かのイベント中で一般拝観は休止していました。
気を取り直して、もう一軒の古民家に行きます。そちらもここの名棟梁が手掛けた建築となっています。
