戦国時代を終わらせ、江戸幕府による約260年の平和な時代をつくりあげた徳川家康。
徳川家康の出身地は岡崎(愛知県岡崎市)だが、青年期、壮年期、老年期と3回に渡って、本拠地とし終の棲家となったのは駿府(静岡県静岡市)であった。
江戸幕府を開いてからの徳川家の本拠地は江戸だったが、将軍職を2代目秀忠に譲ってからは、家康は再び駿府を本拠地とした。
今回は何故、家康は何度も本拠地として駿府を選んだのか?駿府を巡りその理由を探って行きたいと思う。
家康が駿府を本拠地として選んだ3つのポイント
- 洪水から町を守っている賎機山
- 東西北は山、南は海に守られた肥沃な静岡平野
- 駿府から程よい距離にある清水港
駿府城
まずは家康が長年にわたり本拠地とした駿府城にやってきた。
室町~戦国時代は今川家が駿河の領主で、この地に今川館が築かれていた。
幼い頃の家康は今川家の人質として駿府で暮らしていた。家康は生涯で3度駿府で暮らすことになるが、この時が1度目であった。
ただ人質といってもそこまで悪い境遇ではなく、今川家の軍師・太原雪斎から教育を受けたりと、現代の学生期間を駿府で過ごしており、家康にとって駿府は青春そのものだった。
若い家康にとっての最初の転機が今川家の当主、今川義元が織田信長との桶狭間の戦いで討ち死したときであった。家康はどうするのか。
家康は大名として独立する道を選び、生まれ故郷である岡崎に戻った。家康19歳の頃だった。
その後の今川家は義元の嫡男である今川氏真のとき、武田信玄と徳川家康に攻められ滅亡した。
武田家が織田・徳川連合軍に滅ぼされると、駿河は徳川家が領有することとなり、家康再び駿府に戻ってきた。家康40歳の頃である。
この時、駿府城は2回のパワーアップを遂げることになる。
1回目が家康が駿府の領主となった時(天正期)。2回目が江戸幕府が開かれ、大御所となった時(慶長期)。
城内には2回のパワーアップの違いが分かる場所があるので後で行ってみる。
城の殆どは1657年(寛永12年)の城下からの火災によって焼失してしまっている。現在の城は平成になってから一部分が復元されたものである。
では城内に入って家康公に謁見し、手っ取り早く何故、駿府を本拠地としたのか聞き行くことにしよう。
東御門をくぐると桝形虎口があった。城の入口に設けられた防衛ゾーンの事を虎口と呼び、桝形虎口は戦国時代を通して発展してきた虎口の完成形と言われている。
東御門を突破しなだれ込んだ来た敵を、直角の曲がり角を設けることで敵の勢いを削ぐ。そこを四方に配置された櫓等から鉄砲の集中砲火を浴びせ敵の侵入を阻止する仕組みとなっている。
駿府城の堀は全部で三重になっており、東御門で渡ったのが二ノ丸堀。一番内側のある本丸堀は明治時代に埋められてしまっていたが、発掘調査によって一部が蘇った。
ちなみに外堀は静岡県庁や歴史博物館近くの川がそうだった様で、堀だと全然気づかなかった。なので写真は撮っていなかった😢。
駿河の領主になった後の家康は、天下統一した豊臣秀吉により当時ド田舎だった関東へ左遷されてしまい、また駿府から離れることになった。
しかし家康は秀吉の死後、関ヶ原の戦いで豊臣家に勝利し、政権奪取に成功。江戸幕府を開府した。将軍職を二代目の秀忠に譲り、自身は三度駿府に戻って来たのであった。
家康66歳。青春期、壮年期を過ごし知り尽くした駿府に帰ってきたのである。
「多くの英霊が無駄死にで無かったことの証のために、再び徳川の理想を掲げるために、太平の世成就ために、駿府よ!、私は帰ってきた!!」
この紋所が目に入らぬか、ここをどこだと心得る!。畏れ多くも先の将軍・徳川家康公の居城、駿府城なるぞ!。
葵の紋所をみると条件反射で平伏してしまいそう。筆者の前世は江戸時代の小悪党だったかもしれない。
この付近は本丸御殿があったところのようで、家康公はすぐ近くにいらっしゃるはず。
徳川家康像とみかん園
鷹狩りに興じておられる家康公を見つけた。
では今回のテーマである何故、家康は駿府を選んだのか?を聞いてみる。
「ふむ、それは駿河全体の地形をよく見ることだ。特に賎機山と安倍川の位置に注目せよ。それと城下町もよく見ておくがよい。儂が設計した駿府城下町は江戸や名古屋の先駆けとなった町である」
なるほど、では城見物の後で見て回ることに致します。
家康公のお近くには家康手植えのみかん園があった。家康公が大御所時代に植樹したと伝わる県指定天然記念物のみかんの木だ。
このみかんは紀州みかんの一種で紀州藩浅野家から献上されたといわれている。時期が合えば褒美としてみかんを頂けることがあるそうだ。
坤櫓(ひつじさるやぐら)
坤櫓も復元されている。坤櫓という名前は、築城当時は方角を表すのに干支を用いられており、坤櫓がある南西の方角は南の未(ひつじ)と西の申(さる)の間であるため坤櫓と呼ぶとのこと。
駿府城跡天守台発掘調査現場
2023年(令和5年)現在、天守台では発掘調査が行われており、これまでの調査で二つの天守台が発見された。
それが先ほどの、駿府城2回のパワーアップの痕跡である。
奥側の赤のカラーコーンが天正期の天守台(1500年代後半)で、手前の緑のカラーコーンが家康が大御所になった慶長期の天守台(1600年代前半)だ。
二つの天守の違いとして石垣の積み方に差がある。天正期の天守は石をそのまま積み上げた野面積みで、慶長期の天守は石を加工した打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)となっており、技術の進歩が見て取れる。
慶長期の天守台の大きさは南北68m・東西61mもあり、これは江戸城よりも大きく日本最大級の大きさであることが判明した。
家康公の大御所時代の権力の強さがうかがえ、駿府が日本の首都であったといっても過言ではないのかもしれない。
左の岩には刻印が印されている。刻印は当時の職人が印したもので、藩の記号、人名、作業の順番などを示しているといわれている。石垣はもちろん石の階段といった意外なところにもあるので、他の城に行かれた時は探してみるのも面白いかもしれない。
右の岩の長方形の窪みは矢穴といって石を割るためにいれるものらしいだが、割らずに残っている。
城のどこにあったか忘れてしまったが、城下町の地図が掘られた石板があった。
城の周り、特に南側に綺麗な碁盤の目状の町割りが作られている。
よく秀吉は大阪の様な碁盤の目の町割りを好み、それに対して家康は江戸・東京の様に外敵から防御を重視して道を複雑にしたといわれるが、同じく家康公が設計した駿府の町割りはすっきりとした碁盤の目になっている。
この違いは家康公の考え方と言うより土地の地形によるものなのである。
では家康公が言われたように城下町を見に行こう。
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