守口宿歴史観光 町の中に高低差が!文禄堤と生きる町を歩く

守口宿は東海道五十七次のラスト、五十七番目の宿場町。

現在の守口は大阪のベッドタウンとなっていますが、意外にも旧街道沿いには古い町屋や寺院を所々で目にする事が出来、歴史情緒が残されています。

旧街道を歩いていると、他の宿場にはない奇妙な事に気が付きました。旧街道沿いだけが、周囲の地形よりも高くなっているのです。

その理由は豊臣秀吉によって築かれた堤防、文禄堤にあります。

今回は守口宿を巡って、町の中に高低差を生じさせている文禄堤の謎に迫ってきました。

守口宿歴史観光 3つポイント

  • 大阪城を超える豊臣秀吉による超巨大建造物、文禄堤の面影
  • 三日天下、明治天皇の仮御所となった守口
  • 名古屋に奪われた守口発祥の名物とは?
目次

守口宿ってどこ

京都伏見と大坂高麗橋を結ぶ京街道(東海道の京都~大坂間)は淀川沿いに通っており、ほぼ同じルートを京阪電車が走っています。

京街道の宿場は伏見、淀、枚方、守口の4箇所。その中でも大坂の手前にある守口宿は、宿泊客が少なく小さい宿場でした。

京阪守口市駅

前回の枚方宿と同じく京阪電車に乗り、守口にやってきました。

以前、2日かけて京街道を歩いた時、京街道の4つの宿場(伏見、淀、枚方、守口)で初めて訪れたのが守口宿でした。

それまでは、特急で過ぎ去って行くだけの大阪のベッドタウンという印象しかありませんでした。それがまさか宿場町だったとは驚きでした。

その時は先を急いでいてサラッとしか見ることが出来なかったので、再訪を楽しみにしていました。

駅前の文禄堤の碑

駅前には文禄堤の町と書かれた石柱がありました。説明によると宿場が出来る前の守口には、淀川の渡し船の川港「長柄船瀬」があったとあります。

住吉神社神代記によると長柄船瀬は上町台地北のはずれの東端とあり、今も大阪市北区長柄(天神橋筋六丁目辺り)に地名が残っています。守口市とは関係ない様な気が…。

古代のことは追求してもキリがないし筆者の守備範囲外なので、まずは宿場町の入口である見附に行ってみます。

京街道(文禄堤下)

一里塚跡

守口一里塚

守口宿の東見附は全く残されていませんが、この付近にあった一里塚跡の碑が建てられていました。

江戸時代の街道には一里(約4㎞)ごとに目印として、道の両脇に塚を造りその上に松や榎を植えられていました。ほとんどは失われていますが、ここはその名残として新しく松が植えられ一里塚として整備されています。

遠目からでも見える一里塚は、守口宿に近づいた目印になっていたそうです。

筆者も京街道徒歩旅をした時、この案内を見てやっと守口にたどり着いたことに、ちょっと胸が熱くなりました。

瓶橋跡

瓶橋跡

一里塚から街道を進むと国道1号線を渡ります。その先に道を挟んで2本の石柱が立っているところがありました。

枚方宿でも同じようなモノがありました。そうです、かつてここに架かっていた橋の欄干の一部です。

守口に宿場町が出来た時はこの辺りまでだったようで、一里塚付近は出屋敷といって少し後に出来た区画です。

ここに流れているのは川ではなく用水路だったそうで、現在は暗渠になっています。

瓶橋跡

皆さんは「守口如瓶」という四文字熟語はご存知でしょうか? 筆者はもちろん知りませんでした。「もりぐちにょびん」ってなんやねん。

仏教用語で「口を守ること瓶の如し」と読み、不用意な発言は慎むべしという意味だそうです。この守口にちなんで瓶橋と名付けられました。正に守口宿の入口を守る橋だったことが伺えます。

ちなみに守口という地名の由来ですが、元々はこの辺りから生駒山地に広がっていた森の入口だったので森口と表記していたそうです。その後、大坂に大坂本願寺や大坂城が出来たことで、軍事的な意味の守口となったと言われています。

イメージ的には大坂城の鬼門である北東に位置しているので守口だと思っていましたが、そういう意味合いも含まれているのでしょうか。

盛泉寺

盛泉寺

守口宿の歴史を語る上で、重要なお寺が2つあります。その一つが盛泉寺です。

盛泉寺は大坂本願寺で織田信長と闘った顕如の長男である教如によって、1606(慶長11)年に創建。その後、東本願寺の別院となり東の御堂さんと呼ばれています。

盛泉寺

境内にはピサの斜塔の様な松が柱に支えられ、本堂とのツーショットを演じていました。しかし、ここでの主役は松でも本堂でもなく、松の下の柵で覆われた空間です。

今から驚愕の事実をお伝えします。心の準備は良いですか?

実は守口が日本の首都だったのです!! そんなアホなー。

盛泉寺 石碑

江戸時代が終わり明治の世となったとき、首都移転の話が持ち上がりました。大久保利通は大坂遷都を提案し、大坂行幸が行われました。明治天皇は三種の神器の一つ八咫の鏡(依り代)を伴って大坂に向かわれました。その道中、守口で1泊され、八咫の鏡を祀る内侍所が盛泉寺に置かれたのです。

境内には実際に政務をとられた玉座も残っているとのこと。たった一日だけですが、守口が紛れもなく日本の首都だったのです。

内侍所の場所には、松方正義(内閣総理大臣を2回務めた明治の政治家)による石碑が建立されています。

盛泉寺 本堂

松と梅のバックに堂々と構える本堂。仮御所に選ばれただけあって、どこか雅な雰囲気が漂って気がします。

その後、前島密による江戸遷都論の提案があり、最終的に大坂遷都は立ち消えになった。

「大坂は都になれなくても商業都市として発展していけるが、幕府の無い江戸は都でなければ廃れてしまう」。

前島密の江戸大坂比較論は慧眼と言う他ないと思う。ひそかに凄いぞ前島密。

盛泉寺 公式ホームページへ

難宗寺

難宗寺

盛泉寺から少し進むと、立派な太鼓楼が見えてきました。

東御堂の盛泉寺に対して、西御堂と呼ばれている難宗寺です。

難宗寺

山門横には石碑があり「明治天皇守口行在所」と書かれています。

盛泉寺が仮御所としたら、こちらは宿泊所といったところでしょうか。

こちらにも当時の御座所が残されているとのこと。

難宗寺

難宗寺は守口の歴史を語るうえで重要な寺。1477(文明9)年、本願寺の蓮如上人によって建立されました。当時の本願寺の本山であった山科本願寺(1483年)や大坂本願寺(1496年)よりも、先に建てられています。

戦国時代の本願寺と言えば、寺を中心とし防御機能を備えた寺内町が有名です。前回訪れた枚方宿と同じく守口も、宿場町の前は寺内町だったのです。

難宗寺の大銀杏

境内には難宗寺のシンボル、樹齢500年を超える大銀杏があります。

訪れたのは3月上旬だったので、葉っぱも何もなく丸裸状態でした。せめて4月やったら若葉が芽吹いている情景を見れたのに。

難宗寺 公式ホームページへ

難宗寺前のみちしるべ

難宗寺の太鼓楼前には、4つも石碑が立っています。どんだけ案内することがあるんや。

右の二つは紹介した「御行在所」、「御宿泊所」についてです。左の二つは「すぐ守口街道」、「左 京」、「右 大坂」とあります。

難宗寺前は街道の分岐点になっていて、京街道から奈良方面に向かう守口街道(清滝街道、奈良街道)が分かれています。

京街道はここで桝形になっていて、大坂へは右に曲がります。

守口街道(清滝街道)

桝形を真っ直ぐ行った難宗寺の裏門あたりが守口街道の起点です。

奈良時代の行基によって開かれた道で、かつては行基道と呼ばれていました。現在は国道163号線と国道168号線が同じルートを踏襲しています。

四條畷市の清滝峠を越えることから清滝街道とも言い、奈良県の王寺駅付近で竜田越奈良街道(国道25号線)と合流します。

桝形と本陣跡

京街道 桝形

右からやってきた京街道はここで直角に曲がります。

突然、道幅が広くなっているので現代になって拡幅されたのかと思いきや、当時からこの道幅だったらしいです。

守口宿内の街道の幅は二間半(約4.6m)と決まっていましたが、この付近には本陣が問屋場があり、荷物の受け渡しや馬の交換作業のために道を広く(約15m)していました。

守口宿本陣跡

桝形を曲がったところにある駐輪場。ここに守口宿本陣がありました。

この辺りには問屋場もあり、守口宿の心臓部というべきところでした。問屋場は今の郵便局の様なところで、飛脚業務を行っていました。

大塩平八郎の書院跡

大塩平八郎ゆかりの書院跡

本陣跡のすぐ近くには、大塩平八郎が講義を行ったという書院跡がありました。大塩平八郎といえば、大塩平八郎の乱を起こしたことで有名な人物です。

天保年間(1830年代)、異常気象により日本中が飢饉に陥っていました。大坂にも多くの餓死者が出たが、役人は何の手立ても打つことが出来ず、商人は自分が儲けることしか考えていませんでした。

その状況を打破すべく立ち上がったのが、役人であり陽明学者であった大塩平八郎です。

大塩平八郎 解説書き

庶民の味方、大塩平八郎に経済的支援を行っていたのが、守口宿の村役人兼豪農であった白井孝右衛門でした。

白井孝右衛門は大塩平八郎と師弟関係で、邸宅の書院を平八郎の講義所とし、近隣の住民に陽明学を学ばせていました。

大塩平八郎ゆかりの書院跡

2010年まで建物が残されていた様ですが、取り壊されてしまいました😢

現在そこに建っているのは、資本主義の権化「マクドナルド」。天国にいる大塩平八郎や白井孝右衛門はどう思っているんやろか。

リーズナブルな価格で民を飢えから救っている庶民の味方か?
高カロリー・高脂質・高塩分のメニューで健康を損なわせる敵か?

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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