伏見歴史観光 伏見はかつて首都だった?豊臣秀吉が築いた都の記憶を辿る

京都の伏見といえば、月桂冠や黄桜などの蔵元があるお酒の町ってイメージをお持ちでしょうか。

幕末好きであれば、坂本龍馬の寺田屋事件や鳥羽伏見の戦いでしょうか。

実は伏見が日本の首都であったことをご存知ですか?

織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代。安土は信長の安土城を指しています。では桃山は?

秀吉が伏見に築城した伏見桃山城を指しています。秀吉は伏見を首都機能を備えた城下町として整備し、現在もその名残が残されています。

今回は伏見が首都であった名残を巡ってきました。

首都伏見を巡る3つのポイント

  • 時代によって変わる、3つの伏見桃山城
  • 町の名前に武将名⁈ 伏見区の不思議な町名
  • 豊臣と徳川、2人の天下人に関わりがある御香宮神社
目次

伏見桃山城

天守閣

伏見桃山城 天守閣

伏見の市街地の東に広がる桃山丘陵。そこに天下人の城、伏見桃山城がそびえ立っています。

5層6階の大天守と3層4階の小天守で構成されており、天下人となった豊臣秀吉の威厳を象徴しています。

1594(文禄3)年、天下統一を果たした豊臣秀吉の居城として伏見城が築城されました。この時の伏見城は、ここより南へいった宇治川近くの指月山にあり、指月伏見城と言われています

1596(文禄5)年、有名な慶長伏見地震が発生し、完成間近だった天守閣が倒壊していまいます。そのため、現在城跡がある木幡山に新しい伏見城(木幡山伏見城)が築城されました

木幡山は北から続く東山連峰の南端部で、その南側には宇治川が流れているため防御に優れた地形になっています。丘陵地の先っぽは城の防御に適しており、大坂城や名古屋城など多くの城で見られます。

伏見は京都、大坂、奈良の間という交通の要衝であり、淀川や宇治川が近く水運が便利な場所となっています。朝廷の権威と大坂の経済力を両立できる理想的な場所でした。

伏見桃山城 天守閣

1598(慶長3)年、秀吉に伏見城で亡くなり、遺言により伏見城は徳川家康が城主となります

家康は伏見城の城代を家臣の鳥居元忠に任せます。徳川びいきの筆者としては、この時の家康と元忠の別れはめっちゃ好きな場面です。
家康は軍勢を率いて会津の上杉征伐に向かいました。しかし、一つ心配事がありました。家康が留守をしている隙に、家康に反感を持つ者が徒党を組み戦を仕掛けてくる可能性があったのです。その場合、伏見城が最初の標的にされます。家康は元忠に、少数の兵で反家康軍を出来るだけ長く伏見城に引きつける時間稼ぎの役目を託します。

年の近い家康と元忠は今川家の人質時代から苦楽を共にした主従です。伏見城での別れの夜は、2人に並々ならぬ思いがあったでしょう。

家康の予想通り、石田三成は反家康の名目で西軍を作り上げ、4万もの大軍で伏見城に攻め寄せてきました。対する伏見城はたった2300人。しかし元忠の獅子奮迅の働きで13日もの間、西軍を伏見城に釘付けにしました。元忠は戦死し伏見城は落城。元忠の命がけの時間稼ぎは、家康に準備をする時間を与え関ヶ原の戦いの勝利をもたらします。

家康は伏見城を再建し、引き続き伏見城を居城としました。その後、徳川幕府が始まるのは周知の通りですが、家康が征夷大将軍の宣下を受けたのはどこだと思いますか

実は伏見城だったんです。2代目秀忠、3代目家光も伏見城で将軍宣下を受けています。すなわち、初期の徳川幕府は江戸幕府はなく、伏見幕府だったんです。

1623(元和9)年、家光の代になると、家康の代から開発してきた関東地方の土地改良や江戸の町が完成したため、首都機能は江戸に移されました。伏見城は破却されることとなり、伏見幕府時代は終わりを迎えます。

伏見桃山城 天守閣

現在の城は、洛中洛外図に描かれている伏見城を参考にした復興天守です。1964(昭和39)年、近鉄グループが遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルとして築城されました。

現在は閉園しており、耐震性の問題から城内には入ることは出来なくなっています。

以前、プラタモリでタモリさんが特別許可を得て、最上階まで行かれてました。

するどい方でしたら気付いたかもしれませんが、城の名前がタイトルでは伏見桃山城、説明では伏見城になっています。近鉄が建てた伏見桃山城と秀吉時代の伏見城は別物だからです。

天守閣の建っている位置も少し違っていて、この辺りは当時の花畑曲輪で、徳川家康の側室・お亀の方が住んでいた御花畑山荘があったと言われています。

大手門

伏見桃山城 模擬大手門

本丸への入り口には、どこか作り物くさい大手門が構えています。

入り口の両側にシャッターらしきものが見えます。ここが遊園地の入場ゲートとなっていて、シャッターのところが受付だったのです。

門をくぐると目の前に城が現れて、視覚効果としては良いかもしれませんが、桝形虎口くらいは再現して欲しかったです。

伏見桃山城 大手門手前

当時の伏見城は、今の大手門の東側の山の上にありました(秀吉時代と家康時代も少し違っていた)。そのあたりは伏見区桃山町古城山となっていて、地名とリンクしています。

桃山というのは、江戸時代の元禄期、城跡に桃の木が植えられたことから桃山と呼ぶようなりました。そのため、信長と秀吉の時代を安土桃山時代と呼ぶのは変な話で、本来は安土伏見時代とするのが妥当だとする意見をネットでよく見かけます

筆者としても、その時代になかった名称を使うのはおかしいので、最低でも桃山を使うのはやめて欲しいと思っています。例えるなら、江戸時代を東京時代と呼ぶようなものです

話を天守跡に戻します。天守台くらいは残っているかもしれないので、見に行きたいところですが、現在は明治天皇陵となっていて天守跡には入れません。

では、当時の伏見城を感じられる史跡は何も無いでしょうか。安心してください、ありますよ。

伏見城北堀

伏見城北堀

今の伏見桃山城の東側は、野球場やグラウンドになっています。当時は大蔵丸があった場所で、五奉行の一人「長束大蔵大輔正家」の屋敷がありました。

この辺りの地名は伏見区桃山町大蔵となっていて、長束正家の官職名が地名になっています。

大蔵丸の北側は木々が生い茂っており、谷の様な空間が出来ています。ここがかつての伏見城の北堀でした

今は小さな池に水が溜まっているだけですが、当時は筆者がいる所も含め全体に水が張っていたと思います。

伏見城北堀

多くの方も知っての通り、京都は盆地になっていて東側には東山連峰が南北に走っています。伏見城は東山連峰の南端部にあたる木幡山に建っています。

伏見城の南側には宇治川があり天然の要害となっています。しかし北側は丘陵が続いているので、防御に不安が残ります。

そこで秀吉は深さ約20m、幅70m~150m、東西に約500mにも及ぶ巨大な堀を造り、北側の丘陵との間を完全に寸断しました。

日本城郭史上、最大級の堀遺構だと言われています。現代で例えると宅地造成事業や高速道路の掘削レベルの大工事で、それを戦国時代の人間が成し遂げたことに驚くしかないです。

豊臣秀吉の圧倒的な権力と財力が、形として表れています。

城の外にも、伏見が首都であったことを感じられる遺構が残っているので、見に行きましょう。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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