「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」
三重県伊勢市にある伊勢神宮は誰しもが知る日本を代表する神社である。
伊勢神宮に参拝に行くお伊勢参りは、現代に繋がる旅行ブームの先駆けで江戸時代の庶民にとって伊勢音頭の歌詞の様にお伊勢参りは憧れの象徴であった。
江戸時代には約60年に一度、伊勢参拝ブームが起こりこの時期のお伊勢参りをお陰参りと呼ばれていた。参拝客数は数百万人と言われ、1800年代には約500万人に達した。
この時期の面白い風潮として、店の奉公人や、子供が親に黙ってお伊勢参りに出かけても、お守りやお札を持ち帰れば許されると言う慣習があった。
これを抜け参りといって、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌いながら伊勢神宮へ向かったらしい。
元々は私幣禁断といって、天皇の代理である勅使しか伊勢神宮に参拝することは出来なかった。
しかし律令制の崩壊や、戦乱の時代の中、朝廷からの運営資金が失われ祭祀が行えなく経済的に苦しくなっていた。
そこで資金調達のため、御師(おんし)と呼ばれる神職が各地に赴き伊勢神宮参拝の宣伝活動をした。その活動が実り庶民にお伊勢参りが爆発的に広まったのである。
お伊勢参りのルートと言えばまず外宮に行って次に内宮に行くか、時間のない人は内宮のみが一般的ルートになっている。
しかし昔の人々が巡っていたお伊勢参りはそれだけで終わらなかった。
そこで今回は古来から続く江戸時代のお伊勢参りのルートを辿り知られざるお伊勢参りの魅力を探って行く。まずは伊勢への入口に位置している宮川の渡しから今回の旅は始まる。
(今回は長編になったので1外宮編と2内宮編に分けてあります)
江戸時代のお伊勢参りでしか見られない3つの発見ポイント
- 伊勢古市参宮街道に残る創業200年の麻吉旅館
- 外宮を擁する山田町と内宮を擁する宇治町の驚愕の歴史
- 朝熊岳金剛證寺の圧倒される巨大卒塔婆群
宮川から外宮前へ
宮川の渡し
四日市から伊勢神宮へ至る伊勢参宮街道、江戸時代には大勢のお陰参り一行で賑わった街道である。
最後の宿場町・小俣を過ぎると伊勢最大の河川「宮川」が見えてくる。現在は橋が架かっているが、江戸以前は橋がなく渡し船で渡っていた。その船着き場が復元されている。
江戸時代には船待ち客の為の茶屋が並び、向こう岸には御師が出迎えの看板を持って待ち構えていた(今のツアーコンダクターが駅で待っている感じ)。
御師はプロモーション活動だけでなく、参拝客のために宿や料理の手配などもしており現在の旅行プランナーの様な顔も持ち合わせていた。
ここの名物にへんば餅というのがある。その由来は宮川より先は伊勢神宮の神域となるため、馬で乗り入れることが出来なかった。
そのため、馬で来た人はこの付近にあった返馬所で馬を返す必要があった為、その近くで売っていた餅が返馬餅(へんば餅)と言われるなったとのこと。
現在もへんば餅はへんばやで食べられる。
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渡船中の宮川の景色は名所の一つで、現代でも美しい川面が広がり、伊勢の地へ入る期待感が膨らむ。
筋向橋(すじかいばし)
宮川を越えしばらく行くと伊勢市の市街地に入っていく。すると川がないのに欄干がある妙な場所に出くわす。
ご想像の通り、昔は川があったのだが今は暗渠になっている。昔はここからが外宮の門前町になっていた。
解説によるとこの筋向橋(すじかいばし)で様々なところから伊勢に向かっていた街道が一つになっていたらしい。
川は1970年(昭和45年)に暗渠になった。
筋向橋からしばらく行くと、伊勢神宮外宮に到着する。
しかし古来からの正規ルートはまず先に二見浦に行っていたので、今は立ち寄りたいのを我慢して二見浦を目指す。
外宮前から御塩殿神社へ
外宮前を過ぎしばらく進むと、橋が見えてくる。勢田川(せたがわ)に掛かる橋で小田橋といい、内宮へ続く伊勢参宮街道と二見浦へ続く二見道の分岐点であった。
勢田川は御贄川(おんべがわ)とも呼ばれ、御贄とは神様にお供えする供物の事で、この川を使って運んでいた。
勢田川の下流には大湊、二軒茶屋、河崎といった港町が数珠つなぎにあり、伊勢神宮への奉納品や生活物資、参拝客でごった返す宿への供給商品で大変な賑わいを見せていた。
特に伊勢河崎には昔ながらの町並みが保存されており、伊勢の隠れた観光スポットとなっている。
伊勢神宮内宮の五十鈴川御手洗場で有名な五十鈴川を渡る。
ちなみに伊勢神宮外宮から二見浦までのルートは関東から九州まで続いている超巨大断層の中央構造線に沿っている。つまり伊勢神宮外宮と二見興玉神社は中央構造線上に位置しているのである。
中央構造線上には他にも名だたる神社があり、その理由はハッキリとは分かっていない。古代のロマンを感じさせる謎である。
五十鈴川の上流に伊勢神宮内宮がある。江戸時代の式年遷宮では木曽で伐採された木材を木曾川に流し、伊勢湾を突っ切り五十鈴川を遡って内宮に運び入れられていた。
今でも五十鈴川の上流区間でのみ、木材を筏に積み人力で曳く川曳が行われている。
御塩浜
二見道から少し外れ五十鈴川を河口の方へ行くと右側に正方形の形をした妙な施設がある。
ここは御塩浜といって伊勢神宮に奉納する塩を作っている場所で、内宮創建から2000年以上にわたって変わらない手法で作り続けている。
五十鈴川の河口に近い場所は、海水と淡水がちょうど良く混じり合い細かいよい塩が取れると言われている。
ここで製塩作業の最初の工程、鹹水が作られる。作業は塩田が乾燥しやすい真夏の炎天下の中行われる。塩田を五十鈴川の汽水で満たし、真夏の天日で蒸発させることで塩分濃度20%程度の鹹水が出来上がる。
毎年1週間の作業で約2000リットル採取されるとのこと。鹹水はここから東へ2㎞程いったところにある御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)へ運ばれる。
御塩浜から道路を挟んで流れる五十鈴川。河口に近いせいか海の様に広い
御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)
御塩殿神社で製塩作業の続きが行われる。
鳥居の前には鴨長明の歌碑があった。
二見潟 神さびたてる 御塩殿
幾千代みちぬ 松かげにして
鴨長明は伊勢に滞在していた西行法師に会うために伊勢を訪れた。その時に詠んだ歌で、二見浦に神々しく立っている御塩殿は一体何年もの間、松かげに鎮座しているのだろうと、感動を表現している。
結局、長明が伊勢に着いたときは西行はすでに旅立っており会うことは出来なかった。
塩を焼き固めて堅塩を作る作業場、御塩殿
鴨長明は千年以上経った御塩殿を見て感動し、それから約800年後の時代に生きる筆者も同じ御塩殿を見ている。時を越えて感動を共有出来ると言うのは、長い歴史を紡いできた伝統があればこそだと思う。
右は御塩汲入所で御塩浜から運んできた鹹水を壺に入れて保管する施設。左が御塩焼所で鹹水を鉄鍋で炊き上げて粗塩にする施設。ここで作られた堅塩(焼き固めた塩)が伊勢神宮に奉納される。
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