背割下水

東御所まちはそこまで広くないので、背割下水はあまり多くはないが、きちんと残されている。

水が全く流れていないので、普通に歩けそうな感じ。
かくれんぼとか鬼ごっこするとき、秘密の抜け道として使えそう。
四地蔵

西御所にあった、町の入り口には四地蔵が残されていた。
ここは古地図では範囲外だが、現在のマップには四地蔵が書かれている。ということは、ここまでが東御所の範囲内なのだろうか?

南東角の四地蔵。これで全てコンプリート。ここは他のところに比べて、大きめのお堂になっている。
左の石碑には「左 役行者御誕生所茅原山」と書いてある。
役行者(えんのぎょうじゃ)といえば、修験道の開祖で、富士山に初めて登頂した日本初のアルピニストといわれている人物。
近くに役行者が生まれた寺があるみたいなので、後で行ってみることにした。
東御所 町並み

四地蔵の近くに、かなり独特なデザインの家があった。
両端のうだつが2段になっていて、更に1階部分も、うだつっぽくなっている。こんなん見たことがないわ。
あと屋根の部分をよく見ると、隣の家との境目がないので、元々は一つの家だった気がする

東御所の町屋は西御所に比べると、少し残り具合が少ない気がするが、北町通や圓照寺付近にはけっこう残されていた。

この家は元大和絣の問屋だったらしい。
大和絣とは、江戸時代中期に考案された奈良の伝統織物。白い木綿地に十字や井形の染め模様を施したデザイン。
考案したのは御所まちの浅田松堂という人で、江戸から明治にかけて、御所の主力製品になっていたらしい。
昭和に生産が途絶えてしまったが、最近、復活させた人がいるとのこと。

圓照寺付近の通り。黒壁に黒いうだつ、大きな虫籠窓。横には白壁の蔵があって、かなりの富豪の家だろうか。
向かい側の蔵には、元々は無かったであろうアルミ引戸が取り付けられている。
蔵の隣は、共和箔押工業所という会社になっていて、そこの蔵なのかもしれない。
圓照寺

東御所まちの中心、圓照寺。御所地方を代表する浄土真宗寺院で1546年(天文15年)の建立。御所御坊とも呼ばれている。
戦国時代、浄土真宗は爆発的に信徒を増やしており、他宗派や大名によって危険視され、何度も攻められていた。
その経験から、町を環濠や遠見遮断で守る「寺内町」が作られたのである。

立派な太鼓楼。浄土真宗系の大きな寺でよく見かける。
昔は太鼓を鳴らし、周辺に時刻を知らせていた。キリスト教でも教会の鐘が、同じような役割をもっている。
宗教が生活の基礎となっていた時代の名残を感じる。

寺の周りは堀で囲まれており、町の周囲の環濠を外堀とするならば、ここは内堀といったところか。
他の浄土真宗の寺内町でも見てきたが、他宗派や大名からの攻撃を防ぐための防御が施してある。
戦国時代の石山本願寺の戦いの時みたいに、ここも非常時には民が寺に集まり、町を守るために戦っていたのだろうか。

江戸時代後期に建て替えられた本堂は、御所御坊の名にふさわしく、風格が漂っている。

総ヒノキ造りになっていて、これだけ大きなお堂を建てられる御所まちの財力は、相当のものだと思う。

ここを訪れて初めて知ったが、矢印て示した屋根の端の飾りを、獅子口というらしい。
大きな神社や寺にあるみたい。全く気付かなかった。
何故、ここでそれを知ったかと言うと、平成の改修の時に獅子口が交換され、古い獅子口が境内に展示されていたのである。
その大きさに驚愕した!

身長175mの筆者の倍くらいあったので、3m以上はある超巨大獅子口。
こんな巨大なものが屋根の上にあるって、理解が追い付かなかった。
どこに乗ってたんやと、本堂の周りをウロウロして見つけて撮ったのが、さっきの写真。

本堂前の松の木にも驚かされた。
最初は何本も植わっているのだと思っていたが、よく見ると一本の松から、タコの足みたいに長い枝が伸びている。
長すぎるやろ!

本堂横の建物。浄土真宗の寺院によくある対面所だろうか。
こちらの屋根は、破風側が正面になっていて、破風が3段重ねになっている。これも相当珍しい造り。
入口左には柿の木が植わっている。この柿の木もけっこうレアものなのである。

戦国時代以前、柿と言えば渋柿であったが、御所で天然の羊羹と例えられるほどの甘柿が誕生した。
御所柿は甘柿のルーツになっていて、この柿の木が御所柿の源木の一つであるとのこと。
徐々に庶民にも普及していき、正岡子規が「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」と詠んだ時、食べたのは御所柿だったらしい。
次は四地蔵の石碑にあった役行者の生まれた寺、茅原山吉祥草寺へ行ってみた。
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