今回は東御所編

御所まち、3つの魅力
- 寺内町と商業町、1つの町に2つの顔。
- 江戸時代の地図がそのまま使える、リアル江戸時代散歩。
- 豊臣秀吉による下水処理システム、太閤下水(背割下水)。
御所まち 江戸時代の地図と現代の地図

西御所編でも紹介した、1742年(寛保4年)に作られた地図。

こっちは現在の御所まち観光マップ。
今回は町の真ん中を流れる葛城川の東側、東御所まちを巡る。
葛城川

西御所と東御所の間を流れる葛城川。ここを渡ると東御所となる。

一つ疑問なのが、江戸時代の地図には、葛城川にかかる橋が、一本も描かれていないのだ。
どうやって渡っていたのだろうか?
東御所まち

大橋から伸びる道を北町通りといって、東御所まちのメインストリート。
東御所は浄土真宗の寺・圓照寺を中心とした、寺内町となっている。
西御所と比べると、町の大きさは少し小さめ。

この家の駒寄には石灯籠が2つもあった。左が愛宕神社、右が大神宮と書いてある。
個人宅の敷地内に常夜燈があるって珍しい。それも2つも。

なんとも古そうな町石。横の解説によると「六町 正安三年 四月八日」と書いてあるらしい。正安三年っていつやろ?
正安三年は1301年で鎌倉時代末期にあたる。江戸時代ってレベルじゃねぇぞ!
全国で6番目、奈良県では最古の町石らしい。鎌倉時代から、町の名前を示す石碑があったことに驚き。
東御所 環濠

東御所まちにも、もちろん環濠が残っている。町中にあるので、背割下水の様にも見えるけど、環濠とのこと。
厳密にいえば、ここからが東御所まちになるらしい。西御所まちが徐々に広がって、葛城川を渡ってここまで来たらしい。
道の名前もこの環濠を境に西側が新町通、東側が北町通りと変わってしまう。

環濠沿いに東御所まちを代表する寺院、圓照寺が見えた。中心となっている寺院だけあって、立派な瓦屋根。
まずは、東御所まちの環濠も一周してみた。御所まちに来て環濠を一周しないと言うことは、奈良公園に来て鹿せんべいやりをしない様なものなのだ。

東御所の環濠は、ほぼ正方形に町を囲っていて、四隅は直角に折れ曲がっている。
西側の環濠は、東御所まちと西御所まちの境目になっていて、家と家の間を流れている。

南西角では、環濠が3方向に分かれている。
左下へ分岐する水路は、途中から蓋がしてあって、どこへ通じているかは分からなかった。

この辺りは、環濠に面しているアパートの入り口が反対側のため、側溝が無く長い石垣造り見ることが出来た。
それが本来の形のはずで、環濠側に家の玄関がある方が変なのだ。

ここの石垣は切込み接ぎになっている。場所によって、様々な石の積み方を見ることが出来る。
現代的なアパートが、石垣と塀と環濠に守られてるっていうギャップが面白い。

環濠には水が流れ、石積みの上には古い町屋が建っている。良い雰囲気。

環濠の幅はどこも1mも無いが、元々は6m~8mはあったよう。
奈良県大和郡山市にある稗田環濠集落には、幅10mの環濠が残されているとのこと。見に行くリストに、また一つ追加された。
土地のことを深く調べていると、旅先で新しい旅の候補地とめぐり合えることがよくある。正に無限旅ループ。

舗装された道の下には石垣が、顔をのぞかせている。
古地図のとおり、ここもT字路になっていて、水路は町の外へ伸びていた。
どこまで続いているのか気になるので、あとで追いかけてみた。

北側まで一周してきた。東御所まちの環濠は、ほぼ完璧に残されていて、一周し甲斐があった。
次は北東角から町の外へ伸びる水路を、追いかけてみた。

白壁と板塀、石垣に沿って流れる水路。町の環濠より広い幅で残されている。

水路は更に先へ続いている。
しばらく追いかけたが、途中から完全に蓋がされていたので、それ以上は辿ることが出来なかった。
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