常滑歴史散歩 招き猫が導く路地が入り組む陶芸の町

とこにゃん

とこにゃん

巨大招き猫の頭と招く手だけが、ドンと居座っています。常滑のシンボル「とこにゃん」です。

手前にはライトアップの照明があるけど、真夜中に見ると、怖い気がする。

とこにゃん

ここの下はさっき通ってきたとこなめ招き猫通りで、壁の上に設置されていた。元は1つの広い丘陵で、道を直線に通すための切通を作ったことで、2つに分断されている。

ちょっと思ったのが、散歩道ルートからとこにゃんを見に来ると、とこにゃんの後側から来ることになるので、インパクトに欠ける気がする。橋の逆側にあると、路地から抜けた広い切通しの向こうに、とこにゃんがデーンと登場する感じになって、驚きが増したはず。逆側は空いているスペースがなかったのかな。

とこにゃん

とこにゃんの前には、一瞬、本物の猫と見紛うほどリアルな焼き物の猫が。近づくと焼き物の猫と気付いたけど、遠目からだとマジで本物だと思った。

常滑焼の招き猫は丸顔で2頭身のふっくら体型のドラえもんの様な感じなので、余計に本物と思った。

同じく愛知県の瀬戸市も招き猫の産地として有名で、瀬戸焼の招き猫は、細身でスラっとした本物の猫に近いシルエットになっています。。

この猫は瀬戸焼スタイルってことだろうか。

分かれ道に戻って、階段を降りてみる。左側は草が生い茂っていて森になっているのかと思ったら、よく見ると石垣になっていた。丘陵に造られた町なので、石垣を作り階層が出来ています。

カフェ nuu

左は古い陶芸工房。改装してカフェになっているらしい。どう見ても廃屋にしか見えないが、よく見ると看板が建っている。隠れ家過ぎるやろ。

カフェ nuu

ヨーロッパの片田舎を彷彿とさせる店内。行ったことが無いのに何故、そう思ってしまうのかは謎。

カフェ nuu 公式ホームページへ

足湯カフェ

前述の隠れ家的カフェと打って変わって、アピール強めの足湯カフェ。金色の大黒天と恵比寿様の像が派手派手しく出迎えている。

足湯の他にも、「俺の金の焼き芋」「マイクロブタカフェ 君の豚は。」「茶房 たんぽぽ」とエッジの効いた店から、普通の飲食店まで揃い踏みしている。

また、分かれ道に戻ってきて、次は左の道へ進んでみる。右側が先ほどの石垣の上の部分。石垣の上には竹が生い茂っていた。

階段を降りると先ほどの足湯カフェに行くことが出来る。こういう高低差のある町って、迷路みたいで本当に面白い。

しかし何故、常滑は丘陵に町が形成されているのでしょうか?

昔からこの辺りの丘陵からは、陶芸に適した土が出土していました。これまで見てきた常滑焼(特に土管)はどれも赤みがかった色をしていませんでしたか? それが常滑焼の特徴です

知多半島の丘陵地帯の土には鉄分が多く含まれており、それが赤褐色の発色を生み出しています。この土は高温でなくても硬く焼き締まるという利点があり、高い火力を出すことが出来なかった古代では特に貴重でした。そのため、この付近では古代から陶芸で栄えていました。

陶工は自然に良質な陶土が採取できる丘陵に住む様になりました。

作業場や窯場、倉庫、住居というモノづくりと生活空間が一緒になった町並みが形成されましたが、その町割りはそれぞれの陶工が必要に応じて工房や窯を増やしていったため。複雑に入り組んだ路地の町が出来たわけです

常滑が陶芸の町として栄えた理由は、これだけではありません。他の理由を見つけにいきましょう。

廻船問屋 瀧田屋

廻船問屋 瀧田屋

常滑が陶芸の町として栄えた2つ目の理由は海にあります。常滑がある知多半島は西に伊勢湾、東に三河湾に挟まれているため多くの港があり、常滑もその一つでした

重い物を大量に運ぶ輸送手段といえば、船が最強です。特に鉄道や車が無い明治以前は、船以外あり得ませんでした。常滑にも多くの廻船問屋がおり、江戸や関西へ物資を運んでいました。

常滑を代表する廻船問屋の一つ、瀧田家の建物が復元され見学可能なので見に行きましょう。

廻船問屋 瀧田屋

復元整備ということなので、白漆喰とかめちゃくちゃ綺麗で新築っぽい感じ。復元とはいえ、常滑市の指定有形文化財になっています。

廻船問屋が好きな筆者としては、復元していてくれて非常に嬉しいです。常滑焼の発展にとって廻船問屋の重要性を知ってもらいたいという常滑市の熱意を感じます。

廻船問屋 瀧田屋

この家は瀧田家が廻船問屋を始めた四代目瀧田金左衛門が1850年頃に建てたと言われています。

庭には瀧田家八代目の現当主である瀧田英二さんの碑が立っています。今も家系が続いているってのは、歴史の連続性を感じられて良いですね。

廻船問屋 瀧田屋

江戸時代は職住近接が多く、仕事場と住居が一緒になっています。

入口からすぐの部屋には番台があり、ここで商談が行われていたのでしょう。

廻船問屋 瀧田屋

今まで筆者は京都からの行きやすさもあって、北前船が行き交った瀬戸内海や日本海沿岸の港町によく訪れていました。しかし、太平洋側の港町はあまり訪れてなかったので、今回初めて太平洋航路(東廻海運)について学ぶ機会に巡り会いました。

瀧田家の船は年に約5回の航海をしており、そのほとんどは江戸方面であったらしい。常滑を出港して最初は鳥羽に立ち寄り、そこから新幹線のぞみの様に静岡県をガン無視して一気に伊豆半島まで行っている。その後は浦賀を経て江戸湾を進んで行く。

静岡が無視されているのは、遠州灘に原因があります。遠州灘は風が強く、潮流が速く、海岸線は砂丘で港がないため、非常に危険な海域と言われています。

瀧田家が輸送していた荷物は、常滑からは常滑焼や瓦、酒、米といった尾張や伊勢地域の産物を、主に江戸方面に輸送していました。江戸から戻ってくるときは、小麦や大豆などの雑穀、干し鰯などの魚肥を運んでいたとあります。

廻船問屋 瀧田屋 弁財船

江戸時代の主力帆船、弁財船の模型が飾られています。

800石積みの船で全長26m、幅7m、帆柱24m。今の120トンに相当します。

五代目のときには、この弁財船を4隻所有し事業を大きく成長させたとのこと。

船の乗組員はこの大きさの船で、約9名という少人数で航海していたらしい。

廻船問屋 瀧田屋

天井が高くなっている土間には、船の名と瀧田家の家紋を冠した旗が飾られていました。

廻船問屋 瀧田屋

邸宅の奥座敷は、違い棚や円窓など格式高い書院造りになっています。上客はここに通して、ワンランク上のおもてなしをしたのでしょう。

座敷の隣には書院造りに無くてはならない庭園が配置されています。

廻船問屋 瀧田屋

コンパクトなサイズの枯山水庭園には、水琴窟がありました。水琴窟とは地中に水が溜まった瓶が埋められていて、そこに水滴が落ちると音が反響して琴の様な音色が出る仕掛けです。

周りが騒々しいと水滴音は全く聞こえず、静寂の中からその繊細で風雅な音が響いてきます。枯山水庭園と同じで、余計なモノをそぎ落としたシンプルイズベストを追求した芸術ってとこでしょうか。

廻船問屋 瀧田屋 無尽灯

瀧田屋住宅で一番のレアモノが「無尽灯」です。無尽灯は江戸後期に東洋のエジソンこと田中久重によって発明された照明器具です

菜種油を用いて光を発するのは、それまで使われていた行灯と同じですが、照明時間の長さや明るさなど性能が段違いアップしています。しかしその後、海外で発明された石油ランプにより姿を消していきました。

全国で100基ほど残っているといわれており、瀧田家の無尽灯は今でも使うことが出来るとのこと。

廻船問屋 瀧田屋

敷地内には廻船問屋には付き物の立派な蔵がありました。

中は写真撮影が禁止で、瀧田家が航海で用いていた船箪笥やランプ、銭箱などの貴重品が展示されています。

では、引き続きやきもの散歩道を散策していきましょう。

廻船問屋 瀧田家 公式ホームページへ

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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