近江八幡歴史散歩(町並み編) 豪商屋敷とヴォーリズ建築、和洋折衷町歩き

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永原町通り

永原町通り

仲屋町通りの一筋隣の永原町通り。ここもかなりの映えスポット。新町通り以上の大量の伝統的町屋が、道の奥の方まで続いています

永原町の由来は、安土城下町の永原町の住民を移住させたできたことから。多くの豪商が住んでいた地域で、近江八幡の高級住宅街でした。

その割には観光客が少なめなので、写真がめっちゃ撮りやすい。観光客向けの店が少ないからだと思います。

むしろ観光地化されていませんので、リアルな昔の雰囲気を味わえます。

三松屋

三松屋は1887(明治20)年から続いているお惣菜屋。2階が低い江戸時代の町屋に、ガラス扉やガラス窓を取り付けた明治っぽくなっています

お惣菜屋って、観光地ではまず見かけることはないなー。あくまで地元の人の日常の生活空間なのでしょう。

何か買ってどっかで食べようと思いましたが、土日は休みでした。観光客におもねっていないところが、逆にカッコいい。

店舗がたくさん並んでいる観光地は華やかな賑わいがあって、楽しい雰囲気を感じさせます。しかし、永原町通りにはポップな楽しさはないですけど、伝統がそのまま日常なっていて、営為の美しさを感じさせてくれます。

尾賀商店

築150年の町屋。元々は砂糖問屋で、現在は工房やギャラリー、喫茶店などが入っている複合施設になっています。

一度、リニューアルされているらしく、ベンガラ格子と白壁が鮮やかに蘇っています。

この町屋はかなり年季の入った看板が掲げられています。

大きく醤油と書いてあるのは読めるけど、他は全く読めません😢。

永原町通り

突き当りには朝鮮人街道が横切っています。大杉町通りから朝鮮人街道まで本当に途切れることなく、伝統的な町屋建築が連なっていました。

新町通りの様に電柱は地中化はされていないけど、それが逆に現代に生きる伝統建築って感じがして、これはこれで良い気がします。

次は、近江八幡で特にヴォーリズ建築が集まっているところがあるので行ってみましょう。

池田町洋風住宅街

池田町洋館街

永原町通りから朝鮮人街道を戻り、新町通りの重伝建地区を通り抜け町の西側へ

しばらく進むと、道沿いに西洋的な古い感じのレンガ塀が長く伸びていました

この辺りにはヴォーリズが住んでいたこともあって、ヴォーリズ初期の建築が3軒現存しています

現在も住宅として使用されている様で、基本的には中の見学は出来ません。

レンガの積み方にご注目。真ん中を境に違いがあります。

下部はレンガの長い面と短い面が交互に並べられているフランス積みに。上部は単純に長い面だけを並べている長手積みになっています。何故、こんな積み方になっているのでしょうか。

旧吉田邸

1913(大正2)年に建てられた旧吉田邸。持ち主であった吉田悦蔵氏はヴォーリズの教え子で、近江兄弟社の創設者の一人。

旧ウォーターハウス邸

旧吉田邸と同じ年にすぐ隣に建てられた旧ウォーターハウス邸。ヴォーリズと共にキリスト教伝道活動をしていたポール・ウォーターハウス一家の住宅。

ここは誰も住んでおらず、近江兄弟社が管理をしている。

喫茶店と宿泊施設になっていますが、営業時間が短く予約も取りにくいらしいので、中に入るのは結構ハードルが高い。

ウォーターハウス記念館 ホームページへ

ダブルハウス

1921(大正10)年に建てられたダブルハウス。近江兄弟社で働くスタッフ用の住居として建設された。ここは今も住宅として活用されている。

少し写真では分かりづらいですが、ダブルハウスの名前の通り左右対称になっています。いわゆるニコイチ住宅の先駆けです。建築費の削減や広い住空間などの利点があり、当時の欧米で広まっていました

次は大杉町通りに、ヴォーリズ建築以外で近江八幡を代表する西洋的な建築があるので、見に行きます。

白雲館

白雲館

大杉町通りを進むと、札幌時計台の様な建物が見えてきました。

明治時代以降、西洋建築の技術を学んだ日本の大工によって設計建設された建物を擬洋風建築と呼びます。日本全国で見られ、ここもその一つです。主に公共施設や学校、病院などに用いられていました

白雲館は1877(明治10)年に建設された小学校。公共施設にもかかわらず、子供達の教育の為と考えた近江商人の寄付によって建てられました。こういうところでも商人パワーが発揮されているんですね。

学校としては手狭に見えますが、明治時代の人口は今の半分くらいだったので、この規模で良かったのだと思います。数年後には、学校は移転し役所になりました。徐々に人口が増えてきたので、狭くなってきたのでしょう。

今は観光案内所になっていますので、観光の拠点として使うといいかもしれません。

白雲館

白雲館の前には近江八幡を代表する神社、日牟礼八幡宮の参道が伸びています。

白雲館から八幡堀、日牟礼八幡宮、八幡山城へのラインは、近江八幡を代表する景観だと思います。

日牟礼八幡宮

白雲館

白雲館を出て日牟礼八幡宮の参道へ。八幡堀を渡ったところで振り返り、もう一度白雲館を撮影。

神社の燈籠に八幡堀に架かる橋、鳥居の向こうに見える白雲館。和風と洋風が違和感なく調和しています。

和洋の建物が混在する近江八幡ならではの景観。

日牟礼八幡宮 楼門

めちゃくちゃ立派な楼門。八幡宮の名前の通り近江八幡の由来となった神社。日牟礼八幡宮

信長の野望ファンではお馴染み、近江守護「六角氏」によって、1359(延文4)年に建立されました。室町前期はあまり詳しくありませんが、一族の佐々木道誉とゴタゴタしていた時あたりでしょうか。

日牟礼八幡宮を訪れたのは年末だったので、門松が飾ってありました。

日牟礼八幡宮 拝殿

拝殿は楼門より更に古く、源頼朝が近江守護「佐々木氏」に命じて造られた。

佐々木氏は六角氏の先祖で、佐々木氏から六角氏や京極氏、高島氏に分家していった。

六角氏は鎌倉時代から近江を治めていた由緒ある大名。六角定頼の時には管領代に任じられ、室町幕府を支えていたこともあった。また、織田信長が行ったことで有名な楽市楽座は、定頼が創始者である

このことは当時の近江国(滋賀県)の先進性を表してる。

日牟礼八幡宮 本殿

本殿は991(正歴2)年、一条天皇が宇佐八幡宮を勧請して建立。一条天皇といえば、大河ドラマ「光る君へ」で塩野瑛久さんが演じていて、気品のある雰囲気が本当で皇室の人みたいな感じがしました。

神社の創建としては更に昔で、成務天皇が131年に武内宿禰に命じて、大国主命を祀ったのが始まりらしい。

藤原鎌足の息子、藤原不比等が参拝した時に詠んだ歌
天降りの 神の誕生(みあれ)も 八幡かも
ひむれの杜に なびく白雲

にちなんで比牟礼社になったといわれている。

日牟礼八幡宮 公式ホームページへ

たねや

たねや 日牟禮乃舍

神社の参拝といえば、お菓子が付き物ってことで、参道には和菓子屋さんがありました。

たねやは1872(明治5)年に創業した老舗和菓子屋。のちに和菓子だけでなく洋菓子作りも始め、洋菓子部門のクラブハリエはバームクーヘンで有名。近江八幡の和洋折衷を体現している様なお店

ここは店舗ではなくカフェになっていて、名物の一つ「つぶら餅」を使った甘味と高級そうな御膳が提供されています。

しかしクラブハリエに来ると、やはりバームクーヘンが食べたくなります。

ここのメニューには無かったので、近くに別に店舗があるのでそっちに行ってみます。

たねや クラブハリエ日牟禮館

和風建築の日牟禮乃舍とは打って変わって、赤煉瓦作りのクラブハリエ日牟禮館。和風と洋風を行ったり来たりする感じが近江八幡って感じ。

ここからでは見えませんが(写真を撮り忘れた)、奥にヴォーリズ建築(旧忠田邸)があり、カフェとして入ることが出来ます。

いつもはミニサイズのバームクーヘンを買って食べ歩きをしていましたが、今回は大きめのサイズを購入。さっさと家に帰って、近江八幡の余韻を感じながらバームクーヘンを味わうことにしよう。

たねやクラブハリエ 公式ホームページへ

近江八幡巡り Google

近江八幡へのアクセス

公共交通機関🚃🚌
新快速で大阪から約1時間、京都から約30分。近江八幡駅下車。北出口からバスで約10分。

車🚗
名神高速道路「八日市IC」から約30分。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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