前回の歴史編に続いて、今回は近江八幡の町並みにスポットを当ててご紹介します。
近江八幡は、近江商人を生み出した町として知られています。
多くの伝統的な豪商屋敷が今も残されており、また、日本の伝統建築だけでなく、意外に多くの赤レンガや白壁の洋風建築を目にする。大阪の大丸心斎橋店や京都四条大橋の東華菜館などで有名なヴォーリズ建築である。
実際に歩いてみると、赤レンガと白壁が交互に現れてとても印象的です。
古い町並みの中に、どこか異国の香りが漂っているようにも感じます。
日本と西洋の伝統建築が共存する町、近江八幡。他にはない魅力を持った町となっています。
まずは歴史編でも訪れた、朝鮮人街道から町巡りを始めてみました。

朝鮮人街道

歴史編でも紹介した朝鮮人街道。元は織田信長が安土城を築城した際に、城下町を通る街道として整備したのが始まり。
江戸時代になると、朝鮮通信使がこの道を通ったことから、朝鮮人街道と呼ばれるようになった。

朝鮮人街道は当時の近江八幡のメインストリートで、多くの豪商屋敷が建ち並んでいました。
今も伝統的な屋敷が残っているエリアの一つで、重要伝統的建築物群保存地区に指定されています。
この辺りには郷土資料館や見学可能な豪商屋敷が集中しているので、じっくりと見て回りたいエリアとなっています。

朝鮮人街道と交差する新町通。朝鮮人街道から一筋北の大杉町通りまでは、現代的なモノがほとんど無く、江戸明治の風景がそのまま残されています。

南側も伝統家屋が並んでいますが、電線や電柱があるだけで現代的な感じが。
それでは、主だった屋敷を巡って行きましょう。
旧伴家住宅

江戸後期の建物で、当時の一等地であった朝鮮人街道と新町通の角地に建っている旧伴家住宅。
近江八幡には御三家と呼ばれる八幡商人ランキング神3があり、伴伝兵衛家はそのうちの一つ。
江戸時代の町屋にしてはかなりの高さがあり、2階部分も虫籠窓ではなく大窓になっています。
江戸時代の庶民の建物には高さ制限があり、2階には大窓の設置も禁止されていましたが、豪商屋敷では特権が認められていました。これが金の力というものか…

玄関を入ると、建物内を左右に分けている謎の空間が。
昔の日本家屋では土足のまま出入りする土間が設けられ、炊事場や作業場として利用されていました。
左へ上がったところが受付。

受付を入った奥の部屋。建物や伴家の説明の展示パネルが置かれています。
伴家は、織田信長や豊臣秀吉に仕えていた武士であったが、近江八幡の城下町が出来た時に移り住み商人となった。初代は伴庄兵衛を名乗り、そこから分家した家の一つが、この屋敷を建てた伴庄右衛門である。
伴庄右衛門家の「扇屋」は扇子、近江蚊帳、近江表、近江上布を取り扱っていて、その繁盛ぶりは井原西鶴の「本朝町人艦」で紹介されたほどであった。
今に残っている建物は、江戸後期に伴庄右衛門能尹によって建てられたもの。

筆者の大好物、古地図が展示されていました。
年代が書いていませんが、滋賀県ではなく江州蒲生郡八幡町とあるので江戸時代だと思います。色分けされている理由はよく分かりませんでした。
町割りがそこまで大幅に変わっておらず、駅がある町の南側は、まだ何もなかったようです。
左右に垂れ下がっている様に伸びているのが、朝鮮人街道。左へ行くと京都、右へ行くと江戸東京へ続いています。

江戸時代っぽくない広くてゆるい階段。おそらく明治に学校になった時に、改装されたのだと思います。
また、筆者が撮影しているところは、中二階にある大広間になっています。江戸時代どころか現代でも見かけない、珍しい造り。

階段を上ってすぐの部屋には朝鮮通信使関連の展示がされていました。
通信使は徳川将軍の代替わりごとに来日し、その人数は約500人以上の大行列でした。
街道沿いの人にとって一生に一度の大イベントであったそうです。

朝鮮通信使はユネスコの世界の記憶に登録されている。知らなかった。世界の記憶とは、歴史的な記録物を保全するもので、世界遺産の古文書や書物バージョンみたいもの。
ソウルから江戸までの経路が、今のKTXと新幹線のルートとほぼ同じなっています。
韓国旅行をしたとき、新幹線で博多まで行き船で釜山に渡り、KTXでソウルっていう経路で行ってみました。知らず知らずのうちに、朝鮮通信使の帰路ルートを辿っていた様です。

2階の奥には45畳の大広間があります。

大広間には立派な金の屏風が。左の漢詩は、江戸後期の幕臣、浅野長祚(あさの ながよし)の作。赤穂浪士で有名な浅野家の支族にあたる。幕臣になっていたとは意外。
漢詩の意味は、
「ツバメの巣は古く汚く粗末に見えるが、巣の中のヒナたちは親と一緒にくつろいでおり、幸せに満ちている。
掛軸画の人物は貧相で、建物もおぼつかなく藪の中にあるような粗末なものだが、家の庭には花や松が咲きほこり、太陽が高くのぼった中でご飯を炊いている風景は、幸せに満ちたものだ」。
無門関という禅僧の本からの影響で作られている。
貧乏でも日常の些細なことに喜びを見出せたら、人生勝ち組ってことだろうか。
筆者でいうと、旅に出てブログを書いているだけで十分に幸せだと思っています。もっと閲覧数を増やしたいなんて、これっぽっちも思っていませんから。
いやウソです。もっと多くの人に読んでもらいたいです(笑)。煩悩の塊でした。

1階でまだ行っていない土間の右側フロアへ。受付っぽいテーブルがあって、学校の図書館みたい。
明治以降は図書館や学校として使われていたらしく、その時に改装したのでしょうか。
この家は江戸時代には本当に珍しく3階建てになっています。しかし、3階部分は限定公開で、普段は立ち入り禁止になっています。いつ公開されるかは、特に決まっていない様です。


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