大津京歴史観光 幻の都・大津京と天智天皇の足跡を辿る

近江神宮 三井寺 唐崎神社

多くの方は日本の首都と言えば平城京(奈良)、平安京(京都)、東京を思い浮かべると思う。しかし一度だけ、たった5年間だけだが、滋賀県の大津に首都が置かれたことがあった。

天智天皇により造れられた都「大津京」には、渡来人が数多く住み国際都市の様相を呈していた。朝廷にも百済系の優秀な渡来人を官僚として採用し、近江令や日本初となる戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)など律令制の基礎となる政策を次々と実行していった。

しかしその先進的な政策を打ち出した大津京はわずか5年で廃都となり、都は元の飛鳥に戻った。そこで今回は大津京と天智天皇をテーマに大津の町の歴史スポットを紹介していこう。

大津京のここが面白い、3つのおススメポイント

  • 長い間、幻の都と言われてきた古代歴史ロマン。
  • 古来より名所となっている琵琶湖の眺望スポット。
  • 日本四大寺・三井寺やかるたの聖地・近江神宮など全国屈指の寺社仏閣。
目次

大津京駅

JR大津京駅

京都駅から湖西線に乗って滋賀県へ向かう。湖西線は途中の山科駅で東海道本線と分岐して、琵琶湖の西岸を進む路線。

滋賀県に入って最初の駅が、その名の通り大津京駅。元々は西大津駅という駅名だったが、大津京をPRするために地元からの改称運動があり、2008年(平成20年)に大津京駅となった。

ただ、都があった当時は大津京という言い方はなく、近江京や近江大津宮と呼ばれていた。では大津京っていつから呼んでるのかと調べて見ると、明治の歴史学者・喜田貞吉が文献資料に全くない大津京という言葉を使い、それが広まったとあった。そのため、駅名改称も様々な議論があった様である。

このブログでは遺跡そのものは大津宮、広義の意味では大津京の言い方を使って行くことにする。

大津宮跡へはここから京阪に乗り換えて、一駅北の近江神宮前駅が最寄り駅。

京阪近江神宮前駅

筆者は電車には乗らず、大津京駅から折り畳み自転車でやってきた。

ここから大津宮跡へ向かうと言いたいところだが、近江神宮前駅に着いたその時から、既に幻の都・大津宮の内裏の中に入っている

近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこおりいせき)

大津歴史博物館のパンフレットより

大津京の位置は文献に記述が無く長らく幻の都とされてきた。1974(昭和49年)年、大津市錦織地域で発掘調査が行われ、初めて内裏南門の柱穴が発見された。そこから更に発掘が続けられついに、大津市錦織が大津宮の跡地であることが確定した。

まずは当時の姿を模型で再現した姿を見て頂きたい。周りの家屋などは現代のものとなっている。
右下には先ほどの京阪近江神宮前駅があり、そこから壁伝いに左へ行った先に内裏南門があった。

左下には県道47号線が途中で切れており、内裏後殿で再び右上に向かって伸びている。県道47号線が大津宮のほぼ中心部を貫いている。この模型を頭に入れつつ、現在の大津宮遺跡を見に行こう。

大津宮遺跡(第一地点)

大津京遺跡の数ヶ所に碑と案内板が設置されていた。ここは模型の第一地点にあたる。

家々の間で肩身を狭そうにしているが、それでもここがかつての大津宮跡だと言うことを高らかにと宣言しているようにも見えた。

大津宮内裏南門東側(第一地点)

上の写真の反対側の空き地。正面には柱が並んでおり、そこには門から北に延びる塀があったとされる。

大津宮内裏南門東側(第一地点説明板)
第一地点横を走る県道47号線

この道は県道47号線で、大津宮の中心である宮中軸線とほぼ同じ場所を通っている左側の段差の上が上の写真の大津宮遺跡(第一地点)がある場所となる。

当時の施設の位置関係を現在の町並みに落とし込むと、この道の先が内裏南門。そこから入り手前に歩いてくると、真正面に内裏正殿が厳かな姿で建っていた。

ちなみにこの地域の地名「錦織(にしこおり)」は、古代からある地名で当時は錦部郷と呼ばれていた。錦部とは錦を織る職人という意味で、その技術をもった渡来人がこの地域を居住地としてたことに由来する。地名からも渡来人との関係性が読み取れる。

大津京の歴史1
667年、天智天皇は都を奈良の飛鳥から、大津京に遷都した。しかし当時の湖岸は現在よりかなり内陸によっており、西の比叡山麓の間の平地は狭かったため、首都として好立地ではなかった。何故この地を選んだのだろうか?

それを解くためには当時の日本の状況を知っておく必要がある。天智天皇の時代、日本は古代史最大の危機をむかえていた660年、日本の友好国であった百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされた。その際、天智天皇は多くの百済遺民を受け入れ百済復興のため、朝鮮半島へ出兵を決断した。

663年、古代日本最大の軍事介入である、日本・百済VS唐・新羅連合軍の戦い「白村江の戦い」は日本・百済連合軍の大敗北で終わった。

天智天皇は唐の日本侵攻を恐怖し、百済遺民の技術を用い西日本各地に多くの防衛施設(九州の水城が有名)を築城し首都を大津京に遷都した。

理由としては、難波津に近い大和盆地は敵に攻め込まれる可能性があり、それに対して大津は海から遠く、琵琶湖に面しており、敵に攻められたとき北陸や東海地方へ容易に撤退する事が可能ということが挙げられる。

また大津には朝鮮式古墳が多くあり元々百済遺民が多く住んでいた土地であり、政府内にも多くの百済系官僚がおり天智天皇に大津に遷都するように働きかけがあったのではないか。

しかし首都としては大津は狭隘すぎるので、東近江の方へ新たな都を造営する計画もあった様だ。

亡命した多くの百済遺民を住まわせたのは大津だけではなく、近江(滋賀県)全体に及んでいた。彼らがもたらした技術力で近江は生産性が高い地域となっていた。その布石として大津を選んだとも考えられる。
大津京の歴史2へ続く。

長等神社

長等神社

都を守護する鎮守社は都の南北に配置された。大津京の南を鎮守するのは長等神社である。

天智天皇により長等山の山上に建立が始まりで、1054年(天喜2年)に山上から現在の位置に遷座された。860年(貞観2年)にはすぐ近くの園城寺(後述で紹介)の鎮守社となり新日吉社となった。

現在の大津一の大社と言えば近江神宮だが、当時はこの長等神社(新日吉社)で湖南の大社と言われ近江を代表する神社だった明治時代には神仏分離令により園城寺と切り離され今の長等神社に改められた。

写真の豪華な朱塗りの楼門は鎌倉様式に則った明治時代に建立された大作で、大津市の指定文化財に選ばれている。大津京や北の崇福寺は消えてしまったが、この長等神社は今も大津の守り神として地元の信仰を集めている。

長等神社 社殿

本殿は入口の楼門とは打って変わり、素朴な古社と言う雰囲気。神社内は全体的にこの様な感じなのだが、なぜか楼門だけが豪華絢爛になっており、全体としてアンバランスさを感じた。

平忠度の歌碑

境内には平清盛の弟・平忠度の歌碑が建てられている。

「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを
  昔ながらの 山桜かな」

5年あまりで終わってしまった大津京のその後は荒れ放題となってしまう。その様子がこの歌から感じ取れる。昔ながらが長等山に掛かっており、荒廃した大津京と今も咲き誇っている長等山の山桜と対比させ、作者の哀愁が伝わってくる。

実際、その後の平家は桜の様に儚く散っていき、自身の運命の変転を大津京と重ね合わせている。

平家も大津京も驕る平家は久しからずで滅んだわけではない。移り変わる政治情勢の中、自らが正しいと思う政治信念を貫いたに過ぎない。後世の私たちは答えを知っている。

しかしその時代を生きる人々は手探りで答えを探すしかない。天智天皇と天武天皇、2人の兄弟を取り巻く日本の外交状況が、兄の造った都を滅ぼさなければならない悲劇に繋がっていく。

大津京の歴史2
白村江の戦いの敗戦前後、近江朝廷内には多くの百済系官僚がおり、故国を滅ぼした新羅を民族と仇と憎悪していた。この時、朝鮮半島では唐と新羅が抗戦状態に入っていた。

この状況を考えると新羅を憎む百済系官僚は唐と同盟し新羅を攻撃するという案を天智天皇に出した可能性があると考えられる。しかし天武天皇(この時は大海人皇子)はそれには反対だった。

むしろ新羅と同盟し唐の侵略を防ぐ方が日本の防衛上、安全だと考えた。もし唐と協力して新羅を滅ぼすと日本と唐は直接国境を接することになり、日本に侵略の魔の手を伸ばしてくる可能性があるのだ。

672年この状況下で天智天皇は亡くなり、息子の弘文天皇(大友皇子)が継いだ。それを見計らった様に、天武天皇は吉野を脱出した。世にいう壬申の乱(672年)の始まりである。結果は弘文天皇の敗北に終わり大津京は滅亡した。

勝利した天武天皇は親新羅政策をとり、新羅は唐の侵略を退け、唐による脅威は排除されたというわけであった。
大津京の歴史3へ続く

長等神社公式ホームページへ

三井寺(園城寺)

三井寺 仁王門

三井寺(園城寺)は天台宗寺門派の総本山で、天智天皇の孫である大友与太王が父の大友皇子(弘文天皇)の霊を弔うために建立した寺である寺のすぐ近く(当時は境内)には弘文天皇陵(後述で紹介)がある。

正式名称は長等山園城寺といい、自身の田園城邑を寄進して創建され、天武天皇から園城の勅額を賜ったことに由来する。中世では日本四大寺の一つに数えられ、寺と言えば三井寺を指していた。

三井寺は同じ天台宗の延暦寺(山門派総本山)と非常に仲が悪く幾度となく抗争を繰り返してきた。両派の対立や源平合戦、南北朝の動乱等で何度も焼き討ちに遭ったが、その度に再建されてきた。その為、不死鳥の寺と呼ばれている。

金堂・三井の晩鐘・閼伽井屋

金堂

三井寺の総本堂。本尊は天智天皇が信仰していた弥勒仏で、秘仏となっている。堂内には弥勒仏以外にも多数の仏像が祀られておりそれらは見て回ることが出来る。

金堂 案内板
三井の晩鐘

三井寺の見どころは数あるが、その中でも代表的な見どころが近江八景「三井の晩鐘」である。三井寺の梵鐘は日本三大名鐘の一つであり、三井寺は音色の素晴らしさで選ばれている。(残りの2つは京都の神護寺と宇治の平等院)。

音色の良さを言葉で説明するのは難しいのだが、ネットよると、良い鐘の音の条件は、

  • ドレミの「ラ」に近いこと。
  • 振動により重なり合う音の数が多いこと。
  • 反響する音のうなりの周期。

これら全て高水準で満たしているのが三井寺の梵鐘と言われている。あとこの場所も重要な要素で山と湖の間に位置する環境も音の響きに大きく影響しているそうだ。

閼伽井屋

これは金堂の横にある建物で、三井寺の見どころの一つ「閼伽井屋」である。

屋内には水が湧き出ている霊泉があり、この泉は三井寺の由来となった泉で「天智」「天武」「持統」の産湯に用いたと言われている。そこから「御井の寺」と呼ばれ三井寺となった。

閼伽井屋の屋内

屋内には三井寺の名称から井戸があるのかと思いきや、自然のままの様な岩組があり、左の方の岩の間からボコボコという音がして水が湧き出ていた。

霊鐘堂

弁慶の引き摺り鐘

霊鐘堂というお堂の中には、弁慶鐘と言う鐘が展示されている。武蔵坊弁慶が三井寺からこの鐘を奪い、比叡山へ引き摺り上げた。

しかし鐘を比叡山で撞くと、鐘は三井寺に帰りたがって「いのー、いのー」と響き、怒った弁慶は鐘を谷底に投げ捨てたそうだ。その後、三井寺に戻ってくることが出来、今も保管されている。

弁慶の汁鍋

弁慶の引き摺り鐘の隣には弁慶の汁鍋が展示されている。解説によるとこの鍋は弁慶が所持していた鍋で、鐘を奪い取ったときに、残していったものらしい。

江戸時代の観光ガイドブック「近江名所図会」にも「弁慶の汁鍋」として紹介されていたとのこと。

本家 力軒

本家 力軒

この店は三井寺内にある甘味処で、1810年(文久7年)の創業から三井寺の名物「三井寺弁慶力餅」を販売している老舗である。

創業以来、三井寺の境内でのみ店舗を構え昔ながらの味を守り続けている。

名物、弁慶力餅

200年前から続く三井寺の名物、弁慶力餅。柔らかくコシのある求肥餅に抹茶と和三盆糖を合わせたきな粉がたっぷりまぶしてある。

きな粉が風で散り服につく恐れがあるため、お店の方から食べるときはそのまま口に運ばずに和紙に包んで口に運んで頂くようにと食べ方のコツの説明があった。

味の方は抹茶の苦みと和三盆の甘さが絶妙で、それが惜しげもなくまぶしてあってとても美味しかった。

公式ホームページへ

観音堂

観音堂

西国三十三観音霊場の第十四番札所で、本尊の如意輪観音は33年ごとに公開される秘仏である。

ここは三井寺の中で特に高い地点にあるため、琵琶湖と大津市街を一望できる景勝地となっている。

観音堂からの大津市街と琵琶湖の眺め

観音堂の横に展望スポットがあり、そこからだと観音堂全体と大津市街、琵琶湖も合わせて一望できる。

公式ホームページへ

弘文天皇陵

弘文天皇陵

弘文天皇陵は大津市役所の裏側にあり、建物に囲まれており少々見つけづらいところにひっそりとたたずんでいる。弘文天皇は大友皇子(天智天皇の第一皇子)の天皇名だが、日本書紀では天皇に即位しておらず、明治になってから天皇に列席された。

大津京の歴史3
弘文天皇は父の天智天皇が崩御後に皇位継承を巡り、叔父である天武天皇(大海人皇子)と壬申の乱で争った

しかし近江朝廷は白村江の戦いの大敗と言う、政治的大失敗をしており、多くの城を築造させられた西国の豪族は近江朝廷を見放し、東国は天武天皇に一足先に関ヶ原を封鎖され連絡が出来なくなっていた。

その為、近江朝廷は思うように兵力を集められず、近江朝廷は大敗し弘文天皇は首を吊り自害した。

日本書紀では壬申の乱の口火を切ったのは大友皇子で、天武天皇は正当防衛で立ち上がったとあるが、日本書紀は勝利した天武天皇サイドの人間が書いたもののため、鵜呑みには出来ないと言われている。天智天皇が病死と言うのも日本書紀の記述であり、それも疑わしいとされ暗殺されたという説もある。逆に必ず記載があるべき天武天皇の享年が未記載と言う明らかにおかしい点もある。年齢が書けない理由があったのだろうか。今後の研究に期待したいところだ。

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近江神宮 三井寺 唐崎神社

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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