紀州湯浅歴史観光 日本の味はここから始まった。醤油を生み出した町を巡る

和歌山市から電車で30分程のところにある湯浅町は、熊野古道の宿場町の一つ

この小さな宿場町が、日本人にとって一番馴染みがある調味料、醤油を生み出した

味噌作りから偶然できた醤油は、湯浅から全国に広まった。

町並みは全国初の醸造町としての重伝建地区に選ばれていて、今も生きた伝統を味わうことが出来る。

今回は醤油が生まれた記念すべき町、湯浅を巡ってみた。

湯浅の魅力 3つポイント

  • 醤油発祥地、湯浅で味わう金山寺味噌と醤油
  • 今も残る古い醤油蔵が建ち並ぶ町並み
  • 中国から金山寺味噌が伝わり醤油を生み出した寺、興国寺
目次

湯浅ってどこ

湯浅町は和歌山市から南へいったところにある、海沿いの町。というか和歌山県の町はほとんど海沿いやけど。

JR紀勢本線や阪和自動車道が、数珠つなぎの様に海沿いの町を回収している。和歌山市からは約30分くらいの距離。

湯浅駅

湯浅駅 特急くろしお

京都駅発が一日一本しかないので、大阪駅から乗車した特急くろしお。

約1時間半で湯浅駅に到着した。和歌山の観光地の中では比較的近いほう。

これが白浜まで行くと2時間半、紀伊勝浦やと4時間もかかってしまう。ほんまに同じ関西圏か?

湯浅駅

醤油蔵をイメージした駅舎。いつも通り観光案内所でパンフレットを手に入れたら、折り畳み自転車を組み立てて、町巡りに出発。

湯浅町並みパンフレット

歴史の意匠巡り散策マップ

湯浅の重伝建地区は、町の北を流れる山田川の南側に広がっている。

町の東側には有名な熊野古道が通っている。その辺りは重伝建地区には含まれていないが、昔からの町の中心地であった。

まずはその辺りに向かってみた。

熊野古道

熊野古道

駅を出るとすぐに、江戸明治の建物と昭和の商店街が合わさった様な感じの通りに出た。

この道が、熊野三山へ通じる参詣道、熊野古道である。

一般的な熊野古道のイメージと言えば、山道を歩いて峠越えをする様な感じだと思う。ネットの熊野古道観光案内を見ると、熊野三山まで数時間で歩けるコースをおススメしていた。

本来の熊野古道は、平安時代に京都の貴族が熊野詣をするために造られた道なので、大阪の渡辺津(今の天満橋)から熊野三山まで続いている

大阪の渡辺津から紀伊田辺までを「紀伊路」と呼び、紀伊田辺からは山を通る「中辺路」と、海側を通る「大辺路」に分かれる。

観光として人気があるのが中辺路ルート。筆者も昔、歩いたことがある。

立石道標

十字路の角にある、かなり大きな道標。高さが2.35mある熊野古道で一番大きな道標。案内板には道標の説明がされている。

正面には「東 きみいでら(紀三井寺)」、左側には「南 みぎ いせこうや道(右 伊勢高野道)」と行き先を示している。

立石道標 後ろ側

後ろ側には「北 すぐ熊野道」「西 天保九年戊戌五月建立」とある。

天保9年は1838年で、熊野古道の歴史からすればそんなに昔ではないけど、江戸時代の人にも大切にされていたことが感じられた。

立石茶屋

道標の斜向かいには、江戸の風情を残す町屋が建っている。

ここは江戸後期から茶商を営んでいた堀田家の店舗兼住宅。現在は国の登録有形文化財になり、観光案内所・休憩所として利用することが出来る様

立石茶屋

休憩所内は、江戸時代の店舗兼住宅のまま残されている。奥が店主一家の住居スペース、手前が帳場机が置いてある店舗ソーンってとこか。

立石茶屋

畳の部屋には2階がなく、天井がめっちゃ高くなっている。

壁には酒瓶が並べられているのかと思ったけど、湯浅でそんなわけはなく、地元の醤油が並べられている。

熊野古道

山道のイメージある熊野古道だが、湯浅では商店街の中を通っている。

この辺りは道町通りと呼んでいて、かつては宿屋や茶屋が並んでいた区画で、それが商店街になっていった。

熊野古道が通る唯一の商店街なので、熊野古道の宿場町の雰囲気を感じられる重要な場所

山田川

道町通り(熊野古道)を進んで行くと、川があった。ここを渡ってしまうと当時の町の外に出てしまうので、川沿いに進み重伝建地区へ。

湯浅の町並み

大仙堀

大仙堀

しばらく進むと、古い醤油醸造所が見えてきた。この辺りから重伝建地区になっている。

大仙堀

「醤油発祥地」の看板があり、湯浅が成した歴史的な意義深さに感じいる。

ところで、ここの堀は少し変わっている。堀は写真の左奥までしか無く、道で塞がれ外に出ることが出来ない様になっている。

周りの地形を見ると、その理由がよく分かった。

大仙堀

道の反対側にも川が流れていた。この道は山田川沿いに通っていて、この箇所だけ堀と川を分断する様に走っている。

昔はこの道は無く、左の醬油蔵のところが川港(湯浅港)になっていた。蔵の横から直接、醤油樽を船に積み、そのまま海に出て、沖合で大型船に積み替え出荷していた

湯浅港は川が湾に注いでいる天然の良港で、この地域にとって重要な港であった。そのため、ここまで鉄道が通っていたことがあったのだ

隣の有田川町から木材や有田みかんを出荷するため、大仙堀の手前まで有田鉄道が走っていた。1915(大正4)年に開業し、2002(平成14)年に廃止となった。

有田鉄道の廃線跡にこの道が作られた。有田川町の終点、金屋口駅は鉄道公園になっていて、駅舎や車両が展示されている。

有田鉄道のことは全く知らなくて、湯浅観光をしている時に初めてその名前を耳にした。地元の人からその町の昔の話を聞けるのは旅の醍醐味。

いよいよこの先が、本格的な重伝建地区になっている。

北恵比寿神社

北恵比寿神社

大仙堀の通りから一本南側の道(北町通り)へ入る。

この辺りは重伝建地区の北西の端っこで、町の入り口を見守るように神社が建っていた。

昔は町の入り口に神社や祠を置いて、不吉なことから町を守る結界としていた。

北恵比寿神社

神社の解説によると、北恵比寿神社は1661(寛文元)年に、湯浅の漁師が海上安全と豊漁を願って建立とあった

町の入り口にあるので、町の守り神と思ったが、どうも違っていた様だ。

海上安全の場合は、海が見える位置に神社が建てられていることが多いが、ここから海は少し離れている

この疑問も、周りの地形の変化によるものであった。

北恵比寿神社

本殿から門、鳥居を見ると一直線に並んでいて、鳥居の向こうは、現代のよくある町並みがある。

神社の解説によると、昔は鳥居の向こうは砂浜で、海が広がっていたとあった。はっきりしたことは分からないが、昭和の湯浅広港整備によって埋め立てられたらしい

大仙堀や有田鉄道といい、土地の移り変わりを知れて、幸先のいい町巡りスタートとなった。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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