多くの方もご存知の通り、奈良盆地は古代日本の政治・文化の中心でした。中でも葛城山麓にあった葛城王朝はトップクラスに古い歴史をもち、葛城氏や鴨氏が治め栄えていました。
その古さは初代天皇の神武天皇が奈良盆地にやって来る前から存在していたと言われています。
金剛・葛城連山沿いには、当時の街道であった葛城の道が南北に伸び、その道沿いには今もなお葛城の国つ神を祀った寺社が残されています。
今回はそんな神さびた雰囲気が残る葛城古道をたどってきました。
葛城古道の魅力、3つのおススメポイント
- 様々な神話の舞台となった古代が息づく神秘の里
- 道沿いに咲き乱れる彼岸花
- 奈良盆地や大和三山を見渡せる絶景スポット
葛城古道ってどこ
葛城古道は奈良盆地の南側、葛城山の東側の山裾を通っています。
盆地が狭くなり、両側を山に挟まれた場所に古代葛城王朝が栄えていました。
近鉄御所駅

京都から近鉄特急に乗り橿原神宮前駅へ。そこで南大阪線に乗り換え、更に尺土駅で御所線に乗り換えて、1時間30分ほどで近鉄御所駅に到着。けっこう面倒くさい。
近鉄御所線は尺土~御所を結んでおり、その間はたった4駅だけの短い路線。本来はここから五條まで延ばす予定であったが、資金面や世界恐慌のあおりをうけて断念せざるを得なかったとのこと。
今回は、近鉄御所線が夢と終わった五條延伸ルートを辿る旅にもなっています。
御所駅近くの和菓子屋さん兼レンタサイクル屋さんで自転車をレンタルし、まずは葛城坐火雷神社へ向かいました。
葛城坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじ

近鉄御所駅から西側に横たわっている葛城山に向かって進むこと約15分。葛城坐火雷神社、別名笛吹神社(ふえふきじんじゃ)に到着。
笛吹はこの辺りの地名にもなっていて、古代の祭や儀式において笛の演奏を担当した一族が由来となっている。
創建はあまりに古代過ぎて、いつから存在しているのか不明。神社に伝わる旧記では、崇神天皇(3世紀~4世紀ごろ)の時代には存在した伝えられている。

笛吹一族は崇神天皇から笛吹連(ふえふきのむらじ)の名を与えられ、この地に住む祖先神を祀る為、笛吹神社を建立したと伝えられている。連とは古代の氏族制度で神を司る氏族に与えられた姓。
創建時から続く笛吹連は、現在もこの神社の神主を代々受け継いでいる持田家のご先祖。
古代と今がリアルに繋がっていることに驚き。

元々は火雷大神を祀る火雷神社と笛吹連の祖神・天香山命を祀る笛吹神社の二社あったが、合祀され二神が主祭神となっている。

火の神様と笛の神様は全く関係が無いように思えますが、司馬遼太郎は「街道をゆく1」で「笛吹は火吹が転訛したのだろうというのだが、どうも疑いを入れる余地がない」と述べておられる。
昔の火をおこしでは、火種を作った後、息を吹きかけ酸素を送り込むことが重要でした。息の吹きかけには笛の様な竹筒をつかっていたので、火と笛吹は強い関係がある気がします。
ひょっとすると笛吹一族は笛の演奏というより、たたら製鉄などを担っていた一族かもしれません。

本殿の近くには、笛吹連が埋葬されていると思われる古墳があります。

解説によると、葛城山からこの辺りにかけて約80基からなる笛吹古墳群があったらしく、この笛吹神社古墳はその東端に位置するとのこと。
葛城坐火雷神社を後にし、西に見える葛城山の山裾にそって、古代葛城の道を辿って行きます。
ルート上には迷わない様に道標が要所要所に設置されていましたが、全ての曲がり角に完璧に設置されているわけではなかったので、葛城古道のルート地図をページの最後に載せておきました。ぜひご活用を。
実はこの葛城坐火雷神社は、現在の葛城古道ルートからは外れています。しかし、この神社が葛城王朝と無関係とは思えないので、ここを出発地点にしてみました。
ここから南へ行ったところある六地蔵石仏から現在の葛城古道が始まります。
六地蔵石仏

葛城坐火雷神社から六地蔵石仏まで自転車で約6分。
人の背丈ほどもある巨大な石仏が道の真ん中に堂々と鎮座し、6体の地蔵が彫られています。日本中に六地蔵が祀られているところは数多くありますが、一つの岩に6体が彫ってあるのは初めて見ました。
6という数字は、仏教における六道を表しているとされている。
言い伝えによると、ここの地名である櫛羅(くじら)とはくずれるが語源(諸説あり)で、室町時代に大水害が発生し山崩れが起こった時、巨石がこの地に流れ着いた。
そこで村人達は極楽浄土を願い、この巨石に6体の地蔵を彫ったと言われている。
次の目的地、九品寺(くほんじ)までは自転車で約8分。
六地蔵石仏の三叉路を南に進み、坂を下ったり上がったりして進むと次の目的地、九品寺が見えてきました。
九品寺(くほんじ)

九品寺は奈良時代の僧・行基によって開山。
行基は大陸からやってきた渡来人で、日本初の大僧正となり民衆のため様々な社会事業を手掛け、数多くの寺や橋、溜池、温泉などを造り上げた人物である。

九品寺の名前の由来は、仏教用語である上品・中品・下品からきている。各品の中にも上中下があり全部で9つの品があるので九品寺と名付けられた。
上品、下品がまさか仏教から来ているとは知らなかった。品とは道徳心や慈悲の心を指していて、一般的な使われ方とほぼ同じ意味となっています。
仏教的感覚が日本に浸透している一例ですね。

本殿の左横には行基上人の像が立っています。なんとも上品なお姿です。

本堂の裏の参道には石仏が並んでいました。石仏は参道沿いに奥の方まで続いており、その数に驚きながら進みました。
石仏に導かれ奥へ進んでいくと、そこには圧巻の光景が広がっていました。

九品寺最大の見どころ、千体石仏。
南北朝の動乱の際、御所の領主「楢原氏」は南朝側であった楠木正成の味方をするべく一族郎党を率いて参陣。その際、地元の人々は身代わりのための石仏を彫り、九品寺に奉納した。身代わり石仏とも呼ばれ、現在ではその数、約1600~1700体もの石仏が並んでいる。
石仏をよく見ると一体一体違うデザインになっています。身代わり石仏なので、彫った人が思いがそれぞれの石仏に反映されている気がします。

この庭園は、作庭家の森蘊(もりおさむ)によって1971年(昭和46年)に作庭された池泉回遊式庭園。
池の周りには観音様が安置されており、池を琵琶湖に見立て観音様を回ることで疑似的に西国三十三ヶ所めぐりが出来る様になっています。
九品寺は彼岸花でも有名です。ネット情報によると、彼岸花がお寺の周りの空き地や野原、田畑のあぜ道あたりに植わっていて、9月下旬頃には一面が真紅の絨毯の様に咲き誇るとのこと。
是非とも花が咲き誇る頃にまた行きたいな思いましたが、観光客のマナーの悪化などによりトラブルの増加が問題になっているようです。
九品寺の彼岸花の状況について次の記事に詳しく書かれていましたので、ここで紹介します。筆者もまた訪れる際には気を付けたいと思ったので、訪問される前に是非一読を。
地域住民からは「もう無くそう」の声も 彼岸花の名所が危ない:grape(グレイプ)
次の目的地、葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)までは自転車で約6分。
九品寺を後にし、田んぼの脇道を進み坂を上がり、山裾に沿って伸びている道を進んでいく。左手には段々畑が広がり遠くには大和平野が見渡せます。
綏靖天皇葛城高丘宮跡近くのあぜ道を抜け、民家が立ち並ぶくねくねした道を進むと、地元の人達から「いちごんさん」で親しまれている葛城一言主神社に到着。
葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)

葛城一言主神社は「一言主」という変わった名前の神様を祀っています。
「一言主」は、一言であればどんな願いも叶えてくれる神様。「ギャルのパンティおくれーっ!」は一言と見なされるんかな?

一言主は、ちょっと情けないエピソードのある神様。同じ21代目雄略天皇との関係が、時代によって描かれ方が違っている・
奈良時代の文献では、一言主は雄略天皇に深く信仰されていた。それが時代が下ると雄略天皇と対等の友人となった。更に時代が下るとついには、雄略天皇の怒りに触れて土佐に流されてしまったと描かれている。立場が完全に逆になってしまっている。
高知の土佐神社ではでは、一言主が祀られ神様になっている。その後、藤原仲麻呂の乱で功績があった鴨一族の高加茂田守が朝廷に働きかけ、一言主は葛城に戻る事を許された。
それからは元通りなり、今も葛城の土着神として信仰を集めている。

案内板は難解な専門用語で書かれているので超訳してみました。
うちの神社は雄略天皇の頃、「ワシはあかん事もええ事も一言で解決したる一言主やで」と言うて、この世に現れた一言主を祀ってるで。
平安時代の始めには、豊作を祈る祭りをやるのにうちの神社が選ばれたわ。南北朝時代には後光厳天皇から神社ランク最高位を贈られたんやで。
最澄の坊さんが中国に留学しよった時も、うちの神社に立ち寄ってお祈りしたこともあった、ご利益パワーが溢れているめっちゃ古い神社やで。
となります。

一番の見どころは御神木のイチョウの木で、樹齢はなんと1200年に達する。
写真を拡大すると見えますが、幹に気根という乳房の様なものが垂れ下がっているため、乳イチョウと呼ばれています。それにあやかりこの木に祈願すると、子が授かり母乳がよく出る様になるといわれています。
秋の紅葉シーズンには、赤く染まった御神木を見に多数の観光客が訪れるらしい。しかし初夏の青紅葉も爽やか美しいと感じました。
次の目的地、吐田極楽寺(はんだごくらくじ)まではかなり距離があり、自転車でも約20分かかりました。
一言主神社を出て杉並木の参道を東へ向かって下っていく。途中の二の鳥居を通り過ぎ、長い参道をさらに進み県道30号線の下をくぐる。すると大きな一の鳥居が見えてくるので、ここが本来の一言主神社の入り口である。
そこを右折し南へ進むと、古い民家が立ち並ぶ名柄集落に入る。ここは名柄街道(葛城古道)と、水越峠を超えて大阪に出る水越街道が交差する宿場町で、ここで古代の雰囲気から江戸・明治の雰囲気に変わっていく。
宿場町を抜けてしばらく行くと右手に中学校が見えてくる。その次の十字路を道標に沿って右折し、再び山に向かった坂を上り田園地帯を進む。更に山裾に近づくと吐田極楽寺に到着。


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