御所まち歴史観光① 江戸時代の環濠集落がそのまま残る町、御所を巡る 西御所編

皆さん、御所といえばどこを思い浮かべるだろう?やはり京都御所を思い浮かべる人が多いと思う。

しかし今回、行ってきたところは奈良県。奈良盆地の南西、金剛・葛城山の山麓に御所市という町がある。

御所とかいて「ごせ」と読み、古くから大阪、和歌山、伊勢を繋ぐ街道が通る交通の要衝だった。

御所まちで特徴的なのが、町を囲っている環濠。戦国時代、町を外敵から防ぐため、町の周囲に堀や土塁を張り巡らした。

環濠集落は日本全国にみられるが、御所まちは他の環濠集落とひと味違う。

御所まちは川を挟んで2つの環濠集落があるという、全国的に珍しいダブル環濠集落になっている。

さらにその珍しいダブル環濠と町割りが今も残されていて、江戸時代の地図がそのまま使える町なのである。

今回は、2つの顔を持ち江戸時代の地図が使える環濠集落、御所まちを巡ってみた。今回は西御所編。

御所まち、3つの魅力

  • 寺内町と商業町、1つの町に2つの顔。
  • 江戸時代の地図がそのまま使える、リアル江戸時代散歩。
  • 豊臣秀吉による下水処理システム、太閤下水(背割下水)。
目次

近鉄御所駅

近鉄御所駅

以前、葛城古道観光の時にもやってきた近鉄御所駅。

その時は、御所に江戸時代の雰囲気を残す町があるなんて、全く知らなかった。

筆者のマニアック観光地アンテナから逃れるとは。御所まち、只者ではない(笑)。

新地商店街

近鉄御所駅の南側の道を左へ曲がると、新地商店街への道が続いている。

御所まちは商店街の抜けたところで、かなりの駅近。

ちなみに右に見えている和菓子屋さんが、葛城古道観光の時にレンタサイクルを借りたお店。

御菓子司 あけぼ乃

明治18年創業の和菓子屋さん、あけぼ乃。まさか老舗の和菓子屋さんが、レンタサイクルをやっていることを信じられず、店員さんにの話すのをためらった思い出がある。

フルーツ大福がおススメらしく、今回はマスカット大福とあと大福パイを購入した。特に大福パイがめっちゃ旨かった。

新地商店街を抜けると、早速、袖うだつを持った古民家が現れた。

ここからが今回の目的地、御所まちとなる。

御所まち 江戸時代の地図と現代の地図

御所まち 江戸時代の地図

これが1742年(寛保4年)に作られたという地図。

赤い線が道路、白い線が環濠や背割下水等の水路を表していて、どっちも綺麗な碁盤目状なっている。

川を境に西側と東側で分かれている。西御所は大和絣や油屋などを営む商屋が並んだ商人町東御所は円照寺を中心とした寺内町となっている

200年前以上に作られた地図と、現在の町割りが全く変わらないのが、御所まちのウリなのだが、本当に変わっていないのだろうか?

現在の御所まち観光マップ

これが現在の御所まち。町が広くなったので周りは変わっているが、江戸時代からあった箇所は…、これは何度も見比べへんと分からんな~。間違い探しみたい。

いや、これは確かにほとんど変わってない!!

凄いのが、通りだけでなく環濠や背割下水も、そのまま残されている!

御所まちは本当に、江戸時代の地図で町巡りすることが出来るのだ。

テンション上がってきたー。これは全ての通りを巡らずして、去ることは出来ないで。

西御所まち

遠見遮断と高札場

遠見遮断

マップ左上の箇所を右へ曲がるとすぐに、道がクランク状に折れ曲がっている遠見遮断があった。古地図の通り。

別名、鍵の手あるいは桝形と呼ばれており、敵に攻め込まれた時、敵からの見通しを悪くして、侵入する勢いを削ぐ防御の工夫となっている。

当時は合わせて3ヶ所あったらしいが、現在残っているのはここのみ。

現在の様な車社会になると、見通しが悪い遠見遮断は、交通事故の原因となってしまうかもしれない。

高札場

遠見遮断を曲がったところには、高札場があった。

高札場とは、木の札が掲げられた掲示板の様なもので、幕府や藩が法令等を、民衆に周知させるために使われていた。

かなり古い感じなので、当時のがそのまま残っていると思ったが、2008年(平成20年)に復元されたものらしい。

江戸時代の日本の識字率は世界一とよく聞くが、こういうの見ると、多くの人が文字を読めたのだろうと納得出来る。

あと町の入り口には地蔵が置いてあることが多く、地蔵は旅行安全と町の守り神の意味合いがあるらしい。

御所まちでは、4ヶ所の入り口に設置されており、今も全て残っているとのこと。

下街道

遠見遮断の道は下街道といって、昔からの街道であった。

今の大和郡山市から五條市まで結んでいて、その先は奈良市からやってきた中街道と合流し、高野山や和歌山市の方へ繋がっている。

町の中を街道が通っていて交通には便利やけど、戦国時代は防御も大切。そこで遠見遮断や環濠で町を守っている。

高札場の近くにある立派なお屋敷。塀の上には、鋭利な忍び返しが張り巡らしてある。昔からの豪商屋敷って感じ。

衝波除

上の写真の家の駒寄(家の外にある柵)には、何故か大きな石が置いてあった。

これは衝波除(しょうはよけ)といって、昔、T字路やY字路の突き当りは、行き交う人の情念が溜まると考えられていた。それを取り除くものとして、石を設置していた。南河内(大阪南部)に多く見られるとのこと。

現代的な感覚で考えると、T字路やY字路って車が衝突してきそうな怖さがあるし、車がない時代でも怖い感覚はあったのかもしれない。

西御所 環濠

環濠 西側

下街道沿い西側に家々の裏を流れている環濠。

そもそも環濠とは何かというと、外の敵から町を守るためのもので、城の堀の様なもの。

環濠 西側

特に世の中が乱れた戦国時代に、多くの集落で作られた。

当時は日本全国にあったが、現在では、ほとんど見ることが出来なくなっている。

しかし奈良県は環濠集落が残されている町が多く、大和郡山や今井町でも見ることが出来るらしい。いつかまたそっちも見て回りたい。

環濠 南西側

地図の左下で、環濠がカーブしている箇所。町を囲んでいる感じがして、めっちゃ良い!

今は環濠の両サイドに家が建っているが、これでは環濠の外の家は、敵が攻めてきたらひとたまりもない。

本来、環濠の外は町の外なので、田畑が広がっていたはず。

広い田畑に浮かぶ環濠に囲まれた町を想像すると、戦乱の時代を必死に生きてきた人々の知恵と工夫が、目の前に現れてくる。

柳田川とJR和歌山線

西御所の南側は柳田川が流れ、その横をJR和歌山線が走っている。

環濠は線路の横にあるのだが、線路のせいで見にいくことが出来なかった~。

っていうか南側は川があるのに、何故環濠を作っているのだろうか…。

四地蔵(安産地蔵)

南西入り口の四地蔵(安産地蔵)。地蔵は柳田川とJR和歌山線に挟まれた場所に建っている。

ここは線路が作られたので、肩身の狭いことになっている。

環濠 南側

柳田川沿いを進み南側の屈曲部まで来た。左側は葛城川の土手の道路になっている。

素晴らしいことに、家が環濠内に収まっている!

当時は一周全部が、こんな感じだったのだろうと想像しながら、環濠を一周してみる。

環濠 北東側

環濠はこの先の交差点で左へ曲がり、そこからは蓋がしてあって、見えなくなっていた。

十分に環濠を堪能したところで、次は町の中を探索した。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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