浄土真宗中興の祖・本願寺蓮如。福井県あわら市にある吉崎は京都、近江を追われ北陸にたどり着いた蓮如が選んだ本願寺再興の拠点となった町である。
吉崎には御堂とたくさんの坊舎が築かれ、蓮如の想像を超える人が集まり町は空前の賑わいを見せ発展していた。
その後、浄土真宗は戦国時代には一向一揆を生み出し、日本の歴史に前代未聞の宗教自治国(百姓の持ちたる国)を築き上げる一大ムーブメントを巻き起こす程となった。
では何故蓮如は吉崎を選び、浄土真宗はここまでの隆盛を誇る様になったのか?今回はその謎を探るべく吉崎に行ってみた。
吉崎と蓮如上人、3つのポイント
- 県境近くに位置し、海と川と湖がそろった交通の要衝
- 深いことを広く浸透させた蓮如の「御文」と「講」
- 御堂のある丘は3方向を湖に囲まれた天然の要害
蓮如の里 吉崎御坊跡へ
吉崎の最寄り駅である石川県加賀市にある大聖寺駅で降りた。最寄り駅と言っても吉崎とは結構離れている。
吉崎は福井県にあるのにもかかわらず、福井県側から入ることは難しいので石川県側から行くことになる。
自転車でしばらく石川県加賀市を進んでいると、気付かないうちに福井県あわら市に入った様で吉崎御坊跡の看板があった。
越前加賀県境の館
吉崎は非常に面白いところに位置しており、なんと町中に県境が通っているのだ。
面白いことにこの建物は県境をまたぐように造られており、丁度入口のところが県境になっている。
吉崎がこの不思議な県境に位置していることが、吉崎の発展、ひいては浄土真宗の隆盛の秘密の一つである。
館内にも県境が引かれている。
館の前は北潟湖が広がっていて、湖の手前まで県境が続いている。
色の違いは左が福井県の名産・笏谷石、右が石川県の名産・赤瓦になっており、それぞれの県をイメージさせている。
奥が照明で見にくくて申し訳ないが吉崎の模型があった。町の中に県境が引かれていることが分かる。
理由を調べてみたところ、県境が引かれた平安時代は右側に流れている大聖寺川が二方向に分かれ今の県境辺りにも流れていたので、川を県境にしたという説があった。
その後、土砂が堆積していき、蓮如の時代には川はなくなっていたらしい。そこに吉崎の町が作られたため、現在になっても町中に県境が通ることになったと言われている。
明治以前は船が交通の主役であり、吉崎には日本海、北潟湖、大聖寺川があるため船の便が非常に良かった。
そのため、吉崎を布教の拠点とすることで、大聖寺川で加賀方面から、日本海や北潟湖で越前方面から人々は続々と吉崎に集まってきたのである。
また県境近くであるため守護大名の干渉を避けやすい場所でもあった。
蓮如が吉崎の後、建立した山科本願寺や石山本願寺も似た条件を持った寺内町で、特に石山本願寺は今の大阪の原型となる町であった。
蓮如は超一流のジオグラファーであったのだ。
吉崎寺
左半分がただのビルになっている寺っぽくない寺、吉崎寺。
元々は吉崎の名主・大家彦左衛門吉久の館で蓮如が吉崎に到着した際、ここを身を寄せて布教の拠点にした。
吉久は自領である吉崎山を寄進し、その山頂に吉崎御坊が建立されることになった。
嫁おどし肉付き面というものが案内でPRされているので、中でお目にかかろうと思ったら鍵が掛かっていた。
すぐ近くの県境の館に戻り聞いてみたところ、普段は空いているのに、何故閉まっているかよく分からないということだった。
この像は吉崎山の本堂が大火事になった際、吉久が蓮如を背負い命を救った時の姿。
蓮如は後に吉崎を去ることになるのだが、その時も小浜まで船で送ったのも吉久であったらしい。
地元の有力者を味方につけたことが布教成功の第一歩といえるだろう。
蓮如上人記念館
吉崎は蓮如の聖地ということもあり日本で唯一の蓮如上人の記念館があった。ここには蓮如上人の文化遺産が展示されていた。
浄土真宗隆盛の秘密の一つは蓮如上人の遺産に隠されていた。それが「御文」と「講」であった。
ただ館内は撮影禁止であったため、写真は敷地内にある浄土真宗庭園を載せておいた。
「御文」は宗祖・親鸞の教えを分かりやすく嚙み砕いて解説したもので、蓮如は門徒に宛てて御文を書き続けた。
これはキリスト教でいうマルティン・ルターの宗教改革に似ている。
誰もが分かる言葉で人々に伝えることで、一般庶民に教えが広く浸透させたと言うのが共通している。
「講」は地域の門徒が集まって教義などについて語り合う場で、そこで御文が読まれ教えが庶民に爆発的に広まっていった。
蓮如は超一流のインフルエンサーだったのだ。
しかしこの事は今まで無かった地域同士の横のつながりを芽生えさせ、次第に不満のはけ口となり政治批判に繋がっていった。
徐々に蓮如の予想を超える事態に発展していった。
吉崎御坊跡
次はいよいよ吉崎御坊に行ってみる。その前に少し離れたところから吉崎御坊の全体像を眺めてみる。
この丘がかつて御堂や坊舎が築かれていた吉崎御坊の御山であった。
目の前に湖があり、寺というよりも城が建っていそうな台地で天然の要害といった感じ。
東側以外は湖に囲まれており、理想的な防御的地形となっている。
吉崎はこれまでの門前町と違い、寺を中心に町全体の防衛を考えた日本で初めての城塞都市(寺内町)であった。
蓮如は関西での布教時、他宗派からの攻撃を受けた経験があるので、その危機意識から町全体を守るという考えに至ったのではないかと思う。
では御山に登ってみよう。この細い階段の周りの寺院ももちろん本願寺なのだが、その説明は後にして先に御山の上に行ってみる。
現在は当時の建物は何も残ってはいない。しかし当時を偲ばせるスポットが幾つかあった。
かつての象徴として蓮如上人の銅像が立っていた。彫刻家として有名な高村光雲の四大傑作の一つに数えられていると説明書きにあった。
あとの三体は亀山上皇(博多の東公園)、楠木正成(皇居前)、西郷隆盛(上野恩賜公園)。
ここに本堂があったらしく、蓮如が来た時は原始林で覆われており、森を切り開き整地をして本堂が建立された。
説明書きに御堂の広さは五間四方(一辺約9m)とあり、丁度この柵で覆われているくらいの広さだろうか。
蓮如はここからの景色が好きで、2人の弟子と一緒に対岸の浜坂の町や鹿島の森を眺めていた。
今も石に蓮如のぬくもりが残っており、石に積もった雪がいち早く溶けると言われている。
そうだとすると何か化学的な理由があるとおもうのだが。
御山からの眺め。対岸は浜坂の町。対岸は山が大半を占めており、わずかな平地に集落が出来ている。
北側の鹿島の森の眺め。真ん中のこんもりした森が鹿島の森で、その向こうには日本海が見える。蓮如はこの景色を眺めて心を和ませていたと言われている。
鹿島の森は北潟湖と大聖寺川に挟まれた半島の様になっているが、蓮如の時代は島になっていた。
吉崎御坊に大火事があった時、浄土真宗の聖典「教行信証」の一つが火の中に残されていた。
そこで弟子の本光坊了顕は猛火の中に飛び込んで、持ち出そうとした。
しかし脱出が不可能と判断し、なんと自分の腹を割いてその中に巻物を入れて燃えないように守り抜いた。
焼け跡から見つかった了顕のお腹から、血で赤く染まっていたが燃えずにいた教行信証が発見された。
そのため、浄土真宗の経本の表紙は赤色になっているらしい。
凄い話だが、同時に宗教の怖さも感じてしまう話でもある。
当時は突き出た半島になっていて、防衛を重視した町を建設する場所としては最適地であったことが良く分かる。
ここでの町づくりの経験はその後の山科本願寺や石山本願寺に生かされた。
石山本願寺は織田信長が落とすのに10年かかり、豊臣秀吉がその跡地に大阪の街を造った。
蓮如は超一流の都市プランナーであったのだ。
しかしそんな吉崎御坊も戦乱の渦に巻き込まれていった。
隣国の加賀守護・富樫正親が勢力を増していく吉崎御坊の力を恐れ、攻撃をし始めたのであった。門徒勢も応戦し、次第に過激化していった。
しかし蓮如は抗争を避けるため吉崎を退去することを決意する。
北潟湖から小舟に乗り、日本海を経て小浜に移動した。夕日に照らされた吉崎の山を振り返り一句詠んだ。
夜もすがら たたく船端 吉崎の
鹿島続きの 山ぞ恋しき
吉崎を去ることに未練さが伝わってくる。蓮如にとって門徒勢が過激化し守護勢力と争うことなるとは、思ってもない事態であったと思う。
蓮如退去後の吉崎は守護の富樫正親を滅ぼすこととなり、加賀は日本初の宗教自治国「百姓の持ちたる国」となった。
一方、吉崎は1506年(戦国時代初期)、越前の大名・朝倉氏に攻められ灰燼と化し、一旦吉崎の歴史は止まってしまう。
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