滋賀県の東部、鈴鹿山脈にほど近いところにある滋賀県蒲生郡日野町。日野は織田信長の娘婿、蒲生氏郷で知られる蒲生家が400年に渡って治め繁栄の基礎を築いた城下町。
蒲生氏郷による商業を重視した町づくりにより、日野から多くの近江商人が輩出された。日野町は元々、檜物(檜で作った器)作りが盛んでそこから特産品である日野椀が作られており、江戸中期からは医薬品開発が行われ始めた。
近江商人を輩出した町は滋賀県内に数ヶ所あるが、日野の商人の特徴はモノづくりにある。それは今も息づいており、モノづくりの精神は日本三大ブランド牛「近江牛」にかける情熱を生み出し、日野町は近江牛発祥の地と言われている。
日野町は他にも様々なものを生み出しており、先進的な商売のやり方を発明をしている。今回は湖東三大近江商人の一つ、日野町の知られざる凄さと魅力を探る旅に出かけてみよう。
日野のここが凄い、3つの探索ポイント
- 織田信長に愛された早世の天才武将、蒲生氏郷の城下町
- 先進的な日野商人のビジネスモデル
- 日野商人の美意識が生み出した、日野独特の商人屋敷
日野町の位置と昔の街道
湖東三大近江商人の町、日野 五個荘 近江八幡の位置を地図で示した。
緑丸がこの記事で紹介する日野。青丸は五個荘。
青線が東海道、緑線が中山道、赤線が御代参街道、黒線が八風街道と湖東地域には街道が充実しており、京都、伊勢、北陸を結ぶ交通の要衝となっている。
日野町 散策マップ
近江鉄道 日野駅
京都から日野までは2通りの行き方があり、一つは草津まで行き草津線に乗り換え、貴生川で近江鉄道の乗り換えるルート。
もう一つは近江八幡まで行って近江鉄道に乗り換え、次に八日市で近江鉄道本線に乗り換えるルート。
乗り換え回数はどっちも2回と同じだが、所要時間は近江八幡ルートが早く、運賃は貴生川ルートが安い。
ということで、行きは貴生川ルート帰りは近江八幡ルートにすることにした。
日野駅から日野町の中心部まではかなりの距離があり、他にも郊外の町だと駅から離れている事も珍しくない。そこで折り畳み自転車を購入した。おかげで移動に時間を取られることがなく町巡りが出来るようなった。
近江鉄道はサイクルトレインを走らせており、自転車を電車に持ち込むことが可能なのである。なんと追加料金は必要なし。
筆者は折り畳み自転車なのであまり意味はなかったが、自転車を折り畳まず改札に入れるのは楽で非常に助かった。でも本当に大丈夫なのかドキドキした。
五個荘の稿でも紹介したが、近江鉄道では近江商人の手によって設立された企業で、近江鉄道バスは湖東地域の交通網を一手に引き受けている。
鈴休神社(すずやみじんじゃ)
日野駅から日野町中心部へ向けて、少し進んだところに鈴休神社という神社があった。
この神社は飛鳥時代、大津京に遷都された天智天皇が、更に近江で美しい土地を求めて日野へやってこられた。その時に休息されたのがこの場所だったらしい。そのことから鎮守社が建てられ、「すずやみの宮」とつけられたとあった。
大津京巡りをした時に、天智天皇が大津京は暫定的な都で、琵琶湖周辺で都に適した土地を探しているということを知ったが、それは初耳だったので半信半疑だった。けどこうして天智天皇にまつわる史跡が大津以外にあると本当の様な気がしてくる。
御代参街道の交差点
日野には御代参街道(ごだいさんかいどう)が通っており、日野の中心部へ向かう道と交差点には今も常夜燈が残っていた。
御代参街道は中山道の愛知川宿から東海道の土山宿までを繋ぐ脇街道。南へ行けば京都や伊勢、北に行けば八風街道で四日市や名古屋、北国街道で北陸へ行くことが出来る。湖東平野は交通の要衝であった。
石碑には「左 ひの 馬見岡綿向神社山王宮」「みぎ いせみち」と書いてある。筆者は日野へ行くのでもちろん左へ進む。
蒲生氏郷(がもううじさと)公像
御代参街道の分かれ道から進むと、ひばり野公園が見えてくる。
ひばり野公園には蒲生氏郷公の銅像が設置されている。蒲生氏郷は日野では郷土の英雄として尊敬されている武将。
戦国時代に詳しい人には、蒲生氏郷は非常に有能な武将で織田信長に愛され、豊臣秀吉には恐れられた人物で知られている。筆者も元々は六角家の家臣で滋賀県出身の武将とまでは知っていたが、日野町出身でここまで日野の人達に愛されている人物とは知らなかった。
蒲生氏郷が遥か九州へ出陣するときに詠んだ歌が
「思ひきや 人のゆくへぞ 定めなき
わがふるさとを よそに見んとは」
氏郷は日野→松阪→会津と領地を転々と移動されられ、まさか故郷の日野がまた帰ってくる場所ではなくなるとは夢にも思わなかったのであろう。
氏郷が日野で愛されているのは、氏郷が楽市楽座で商業の育成に努め日野の発展に大きな功績があったからである。
しかし1584年(天正12年)、戦功により豊臣秀吉から伊勢松阪12万石(当時は松坂と書く)の加増転封が言い渡された。
松阪への移動に際して、氏郷を慕う多くの日野商人は共に松阪へ移った。氏郷は松阪でも商業の育成に力を入れ、松阪の伊勢商人の始まりとなった。しかし残された日野は以前の活気を失ってしまうことになった。
そこで日野商人が生み出した起死回生のアイディアとは。続きは下で。
日野の町並み
蒲生氏郷公に挨拶が終わったら、いよいよ日野の旧市街へ入っていく。町並みには昔ながらの板塀や白漆喰の土蔵が残されている。
マンホールは日野商人のイメージ図が描かれている
山車倉庫
町の中には写真の様な異様に高さのある出入口を持った倉庫があちこちで見かけられた。これは日野祭(ひのまつり)で巡行する山車(だし)の格納庫なのである。
各町内ごとにあり全部で16基の山車があるとのこと。これは滋賀県内の祭りで最大の保有数を誇っている。
近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)
日野商人の一人、山中兵右衛門邸の本宅が歴史民俗資料館として見学することが可能で、ここに先ほどの日野復活の起死回生のアイデアの謎の答えが網羅されている。
入ったところには大量のお椀が並べられている。これが日野復活の元となる日野の名産品「日野椀」である。
冒頭でも少し紹介したが、日野は鈴鹿山脈に近く檜が豊富に採れ、鈴鹿山脈の綿向山からは日野川が流れているため材木の輸送に事欠かなかった事が日野椀が生み出される要因となった。
日野復活のアイデアその1はその日野椀を行商により全国で売り歩くことであった。日野椀は耐久性があり安価でもあった為、一般庶民に大ヒットした。
しかし江戸中期頃には他国産の漆器との競争に敗れ、日野椀は徐々に衰退し完全に途絶えた時期もあった。次に日野復活のアイディアその2が生み出された。
日野椀は現在では復活し食洗器で洗える程の耐久性がある漆器として、生産が追いつかないくらいの注文があるとのこと。
その横には当時の帳場が再現されている。この帳場に日野椀に変わる新たな日野の名物が隠されている。
起死回生のアイデアその2とは薬の生産である。江戸中期の日野商人・正野玄三は日野椀の行商をしていた最中、母親が病気が病気になってしまう。
しかし医者のお陰で回復し、玄三は医師を志した。京都で医療製薬勉強に励み、1701年、日野で調剤薬局を開業した。調合した合薬を行商人に持たせ全国で売り歩いた。
薬は日野椀よりも携帯しやすく、日野の製薬業者も増加していき日野椀に変わる主力製品となった。現在も日野には数多くの製薬業者が存在している。
この正野玄三は現在に続く日野薬品工業の元祖である。
日野商人の底力は薬のヒットだけは終わらなかった。
日野商人は売り先を田舎の農村がメインにしていた。しかし中には代金を支払えない農家もあり、その場合は代わりにお米で支払ってもらっていたが、お米をお金に換金してもあまり利益にならなかった。
その為、米の良い活用方法はないかと考え出されたのが、日野復活のアイデアその3の酒造りである。湖東平野は古くからの穀倉地帯であった為、沢山の造り酒屋あり高い醸造技術を持っていた。
日野商人は氏郷公と共に各地に散らばった元日野商人と商人ネットワークを形成していた。氏郷公が40歳の若さで亡くなると嫡男の秀行公が跡を継ぎ、会津から宇都宮に移封となっていた。
宇都宮は大消費地江戸に近く水も米も豊富で酒造業を始めるには最適な土地であったため宇都宮に移った元日野商人は酒造業者に転換した。
現在でも北関東で日野商人が創業した蔵元が多数残っていると言われている。実際、並べられている酒のほとんどが北関東の酒造会社である。
ここ近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)の持ち主であった山中兵右衛門も日野椀の行商から始め、醸造業に転向し成功を収めた日野商人の一人である。現在の屋敷は日野町に寄贈されており、国の登録有形文化財に登録されている。
山中兵右衛門の蔵元は今も静岡で山中兵右衛門商店として続いている。
商品を行商で売り歩き、お金が貯まると各地域に店舗を出店するのは近江商人共通の特徴である。
日野商人の特徴は多数の小型店舗を地方都市に出店すると言う方法をとっており、千両貯まれば店を出すという事で「日野の千両店」と呼ばれた。現代のチェーン店の先駆けと言われている。
上で挙げた日野商人同士のネットワーク「日野大当番仲間」は他の近江商人にはない特徴で、解説によると様々な職業の人達が加入をしており、個人の商いを全国規模で行いやすいように組織がバックアップすると言うものであったらしい。
日野大当番仲間は各地の宿場町の定宿と契約を交わしており、そこで様々なサービスが受けられることが加入の最大の利点であった。
定宿にとっては広告や看板に日野商人定宿と記すことで、当宿屋はあの有名な日野商人が使う一流の宿屋ですよと宣伝することになっていた。日野大当番仲間と定宿の関係は互いにwin-winの関係性となっている。
それだけ日野商人にネームバリューがあったと言うことがよく分かる。
この解説では日野商人が複式簿記を採用していたことが説明されている。複式簿記は中世のイタリアで発明されたもので、ゲーテをして「複式簿記は人類最大の発明の一つ」と言わしめている程、財産管理や商取引にとって超重要な記帳法である。
近江商人の複式簿記はヨーロッパのそれとは少し違って和式複式簿記と言われており、近江商人が独自で編み出したのか、または江戸初期にイギリスの東インド会社から持ち込まれた簿記解説書からヒントを得たのか不明となっている。
ヨーロッパで複式簿記が広まった背景として、大航海時代の幕開けで世界中に販路を広げ、それまでとは比較にならないくらいの大規模な商取引が行われる様になった。
そうなると以前の単式簿記ではその業者全体の財産管理に不便さが生じたため、複式簿記が生まれたと言われている。
近江商人が複式簿記を採用していたと言う事は、当時の近江商人も日本全国に販売網を広げ、経営規模が拡大してきたと言う状況にあり、複式簿記の発生条件を満たしていたのではないかと思う。
しかし近江商人が生み出した和式複式簿記は明治以降に導入された洋式複式簿記にとって代わられてしまう。とは言え日本の資本主義の発展にとって重要な貢献をしたことは間違いない。
日野商人の先見性はこれで終わらず、なんと日野商人は日本でどこよりも早く年金制度を実施したらしく、その保証書が展示されている。
Wikipediaの解説では、日本最古の年金は明治の軍人恩給で1875年(明治8年)とあるが、この解説では日野商人はそれより早い1867年(慶応3年)に、退職年金200両の利息16両を盆と年末の年2回支給する証明書を発行している。何というホワイト企業!
日野祭の展示がされており、かわいい山車の模型が並べられている。
屋敷中のあらゆる場所に展示や解説があり、ここまでの情報量が詰め込んだ資料館は見た事がない。
全部読んでいたら日が暮れてしまうので、写真に撮りまくって後日じっくりと読ませてもらった。是非紹介したいと思った内容があまりに多かったので近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)の紹介が異常に長くなってしまった(笑)。
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